常世国往還記

本と映画のノート



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魔法が解けるとき

2007/04/26(木) 18:18:52

シンデレラ(book)
エド・マクベイン 長野きよみ 訳
早川書房 (1988/10)


ホープ弁護士の仕事を請け負っていた私立探偵のオットーが何者かに殺害された。オットーと個人的にも親しかったホープは、事件の真相を知るべく、彼が死の直前まで追っていた二件の調査について調べ始める。浮気調査と窃盗事件、いずれの件にも複雑な裏事情がからんでおり、知れば知るほど、殺害動機のありそうな人物は増えていく。
一方、ホープのあずかり知らぬところで、一人の娼婦を探す男たちが、彼女の近親者を次々に殺害していた。
行方をくらました娼婦「シンデレラ」とは何者なのか。また、彼女を探す目的は? オットー殺害とシンデレラの関係は?
ホープ弁護士は、出足の遅い警察を尻目に、錯綜する事件に分け入っていくのだった。


たかだか400ページにも満たない文庫のミステリーに、一週間もかかってしまいました。
何がややこしいって、名前の多いこと! 一人の人物に、偽名やら通称やら、複数の呼称があって、読むたびに誰が誰やらわからなくなる。そればかりか、パラグラフごとに、三人称の「彼」「彼女」の指す対象がころころ変わるので、もう大混乱です。
ガラスの靴をはいたシンデレラのように、誰もが時と場合によって、全く違う人物に変身します。あるときは加害者にも、あるときは被害者にも。そして、シンデレラの秘密を知った者には死が待っている。

「変身」をキーワードに、複雑なストーリーが展開します。ビジュアル情報のない、テキストによるミステリーの醍醐味。「名前」と「本体」のズレも、事件の混乱要素として面白い働きをしています。
シリーズお約束の、ホープと元妻スーザン、難しいお年頃にさしかかった娘ジョアンナのからみも、実はシンデレラ物語に重ねてあるという凝りよう。探偵のキャラクター小説に堕しがちなシリーズ物としては、出色の出来だと思います。

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損な取引き

2007/04/25(水) 18:21:11

エド マクベイン 喜多 元子訳
早川書房 (1991/06)


その夜のホープ弁護士には、まるきりツキがなかった。
帰宅途中に立ち寄った居酒屋で、二人組のゴロツキにからまれて、ガールフレンドの目の前でボコボコにされ、意気消沈しているところへ、ベッドでなぐさめてくれるはずの彼女からの別れ話。そしてトドメは、依頼人が殺害されたとの知らせ。
死んだ顧客は、ジャックという二十歳になったばかりの男。この高校生に毛の生えたようなガキが、気でも狂ったか、荒れ果てた豆畑を法外な高額で買おうとしており、その法的手続きをホープに依頼していたのだ。
依頼主の若さと取引の無謀さもさることながら、即金で支払うという点にひっかかるものを感じていたホープ。取引とジャックの死に関係はあるのか。彼はなぜ、あんな荒地を買おうとしていたのか。また、彼の所持していた現ナマの出所は?
不得要領のまま、中断した契約の後始末というさえない仕事をまとめるために、ジャックの実家に向かったホープだったが。


「87分署」シリーズで知られるマクベインの、比較的新しいシリーズものです。男っぽい87分署の面々に比べ、やさ男でちょっとヘタレ、バツいちの子持ちという、非常に現代的なキャラクターのホープ弁護士が主人公。童話にちなんだタイトルがお約束のようです。
現実離れしたトリックも驚くようなタネあかしもなく、ほぼ予想通りの穏当な展開ですが、登場人物が多彩なことと、フロリダの牧畜業についての薀蓄に、紀行文的な楽しさがあり、読み物としては水準以上です。

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悪夢をめぐる旅

2007/04/22(日) 17:34:45

4102160191サイレント・ゲーム(上)(下)(book)
リチャード・ノース パタースン 後藤 由季子訳
新潮社 2005-10

by G-Tools


サンフランの売れっ子弁護士トニーには、暗い過去があった。
片田舎の町、レイクシティで過ごしたハイスクール時代、恋人のアリスンが何者かに殺害され、第一発見者である彼に容疑がかかったのだ。ラヴィン弁護士の助けで、起訴はまぬがれたものの、真犯人はあがらず、事件はすっきり解決しないまま、彼は人々の疑惑の目に追われるように町を去る。
その後、二度とふるさとを訪れぬまま、長い年月が流れ、当時の自分と同じ年齢の息子をもつ父となった彼に、突然、当時の親友サムの妻スーから、依頼の電話が入った。現在、母校の教頭を務めているサムに、あろうことか、教え子殺害の容疑がかけられているというのだ。
二人は、事件以来のけ者になっていたトニーに、最後まで友情を示してくれた、数少ない友達。その上スーとは、アリスン亡きあと、友人以上の関係だったこともあった。
スーとサムを助けるため、そして、自らの過去を清算するために、トニーは28年ぶりに、因縁のレイクシティに向かう。


子供の眼」では、もっぱら法廷描写が見事で、人間を書くほうはうまくないなあと思ったパタースンでしたが、この小説は一転して、心理劇のようです。
第一部では、トニーの青春時代の記憶、そして、彼のその後の人生の通奏低音となった事件を、第二部では、サムの起訴に至るまでのトニーの調査や、検察との駆け引きを丹念に追います。法廷に入る前から、既に裁判は始まっているのですね。例によって、あちらの裁判制度のお勉強にもなります。
第三部は、いよいよ法廷劇。検察との丁々発止のやりとりを描いて、スリリングな展開です。そして、終局となる第四部。これは、裁判の後日談にあたりますが、ここに至って遂に、原題「Silent Witness」(物言わぬ目撃者)の意味が明かされます。

トニーとサム、それぞれの事件は解決するのか、真犯人は現れるのだろうか、という興味とともに、十代の切ない思い出、未熟ゆえに無垢で一途な情熱や葛藤のほほえましさと哀しさ、小さな田舎町の小さなコミュニティと、そこに生きる人々の移り変わりなど、事件の背景が活写され、思わず引き込まれます。
ここには、絵に描いたようなヒーローも、完全な悪役もいません。どこにでもいそうな、平凡な登場人物の一人ひとりが、細かく彫り上げられ、リアルな存在感を持っています。
誰も―トニーさえ―完全な善ではありえず、憎むべき悪意もまた、苦しみや悲しみにつつまれているのです。

プロテスタントとカトリックの宗派対立や、人種問題など、「そこそこ豊かで平和なベッドタウン」の陰に見え隠れする瑕疵。犯罪を生み出す原因の一端をになう社会的な環境についても、作者のしっかりしたまなざしが感じられます。
ウォーの「この町の誰かが」と似ていますが、より深く、より現実味を帯びて、読後に何ともいえない余韻が残りました。


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人喰いの世紀

2007/04/20(金) 16:15:57

ハンニバル・ライジング 上巻 (1)
トマス・ハリス 高見 浩訳
新潮社 (2007/03)

リトアニアの貴族の家庭に生まれたハンニバル少年は、幼くして既に類まれな頭脳の片鱗を見せ始めていた。
豪奢な居城で、亡命ユダヤ人学者ヤコフ先生を家庭教師に、この世界の仕組みを学びつつ、優しい両親や忠実な使用人たち、そして最愛の妹ミーシャに囲まれた彼の幸福な幼年時代は、しかし、ドイツ軍のソ連侵攻によって無残にも打ち砕かれる。
混乱の中で、城も財産も奪われ、親しい人々をすべて失い、からくも一人生き残った十三歳のハンニバルは、戦後、フランスに住む叔父夫婦に引き取られるが、凄惨な体験のショックから、記憶と言葉を失っていた。
高名な画家の叔父と、その妻である美しく淑やかな日本女性、紫夫人の庇護の下で、彼は徐々に本来の自分を取り戻す。だが、利発で穏やかな少年の心の奥で、妹の記憶と共に、人として最も大切なものが欠落してしてしまったことに気づく者はなかった。
やがて、彼の周囲で起こる猟奇事件。捜査に当たったポピール警視は、異様に冷徹で、子供らしい動揺を全く見せないハンニバル少年に、疑惑の目を向け、執拗に接触するが…。


「レッド・ドラゴン」でデビュー、「羊たちの沈黙」でブレイクした(笑)、怪物カニバル・ハンニバルことレクター博士の生い立ちから渡米までを描いた、シリーズ第四作。
前作「ハンニバル」での挿話を受けて、聡明で無邪気な天使が、想像を絶する経験を経て、世間を震撼させる悪魔と変じるまでを描いています。

そこはまあいいのですが、今回は、ヒロインが日本女性であることから、全編に日本趣味をちりばめてありまして、残念ながら、日本人としては何かと引っかかります。細かい点には目をつぶるとしても、全体に、平安貴族趣味と武士道という、ガイジンの好きな二大ニッポン文化がごった煮になっているあたりがどうも、取って付けたような感じです。(これでニンジャが出てくれば完璧だったのにねえ。)

紫夫人のやることも言うことも、西洋から見た「日本女性」のイメージを継ぎはぎしたアンドロイドみたいです。多少原文から逸脱してでも、言葉遣いなり何なり、和訳のほうで雰囲気を補えば、少しはどうにかできたような気もするのですが、時代がかった(昭和ですらない)内容の会話を、現代女性の口調で喋るものだから、何ともいえず妙な雰囲気。
ちなみに、名前の「紫」も、「紫の上」にちなんだのかと思ったら、式部のほうなんだそうで、これも、ちょっと違うのよ~と言いたくなりますね。

日本文化に限らず、今回は全体に、ハリスにしては作りこみが足りない印象です。
ハンニバルのトラウマについては、ほとんど前作を踏襲しただけだし、登場する悪役も平凡。レクター城のご家族をはじめ、せっかく実在のモデルまである叔父さんさえ、お上品なだけでキャラが薄い。彼よりシーザー(馬)のほうがまだしも印象的です。
マダム・バイオレットが戦中・戦後に置かれた微妙な立場だとか、今風のセクハラや人種差別なんかより、ずっと「お話」になりそうなネタが、いくらでも転がっているのに、表面的・断片的なエピソードだけで流してしまっているのはつまらない。
ポピール警視についても、書き込み不足のようです。敵味方はっきりしないところは面白いですが、のちのグレアムのように奇妙な共感が生まれるわけでもなく、頭脳戦での好敵手にもならず、何につけても中途半端で、出番が多い割には個性にも魅力にも乏しく、ハンサムという以外に何が取り得なのか、よくわかりません。こちらも、占領下のフランスでの精神的な葛藤を、もっと前面に出せば、性格に厚みが出て、存在感が増したのではないでしょうか。

結局、始めに映画化ありき、ということで、映画公開に併せて慌てて書いた、裏話的な読み物なのでしょうか。
ハリスはこういうことはやらない作家だと思っていたので、ちょっとガッカリです。
映画メインなら、それはそれですが、さすがにこれをスクリーンで見るのはいやだな。

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ゲームは二十歳になってから

2007/04/18(水) 18:36:01

脳内汚染
脳内汚染(book)
posted with amazlet on 07.04.05
岡田 尊司
文藝春秋 (2005/12)


主にコンピュータゲームが、子供の脳におよぼす悪影響に警鐘を鳴らした本。出版当時、ネットで大たたきにあっていたものです。
以前読んだ、同じ著者の「悲しみの子供たち」は、専門家らしく、どちらかというと地味なケーススタディ調で、どう見ても叩かれるような内容や文章ではありませんでしたが、本書はまた何で?


コンピュータゲームに習慣性があるというのは、考えてみれば当たり前の話です。繰り返しやりたくなるような「面白い」ものでなければ、商品価値がありません。わざわざクソゲー買うバカなんているでしょうか。子供にしろ大人にしろ、みんなが欲しがるゲームは、繰り返しやりたくなるように、うまく出来ているものです。誘惑に弱い小さな子供が手にすれば、他の事はそっちのけではまってしまうのは、むしろ自然なことでしょうね。

ただ、おもしろいのはいいけれど、成長期の子供が、朝から晩まで室内に座り込んで、こんなものにばかりとりついていたら、成長に悪影響があるに決まっています。
ゲームに没頭すれば、現実との区別がつきにくくなるのも、子供なら当然の話。子供の世界で、現実と仮想が交錯するのは、何もゲームに限ったことではありません。うちには、十六にもなって、ホラー映画でトイレに行かれなくなった人がいるくらいなんだから。
ゲームでスカっとしたことを、現実でもついやってみたくなっちゃう…そういうこともあるでしょうね。
小学生が殺人ゲームやエロゲなんて、ああとんでもない! ゲーム危ない!ゲーム良くない!

だから(二十歳は冗談としても)「子供はゲーム禁止にしましょう」という著者の主張は、多少極端とは思うものの、とりたてて反論すべき点も見当たらないのですが、実際に読んでみると、論旨にちょこちょこ瑕疵があるんですね。
たとえば、ゲームと子供の問題行動の関係を論じる根拠とされている「寝屋川調査」なるものですが、これが、どんなものなのか、読んでいてよくわからない。何がどれの何倍あって、というような書き方でなしに、生の数表やグラフなどをもっと入れて、数字自身に語らせることはできなかったのでしょうか。全体の調査票も欲しかった。
引用が部分的で、かつ具体性を欠くために、都合のいい部分だけを取り上げているのではと疑われかねません。

少年犯罪が急増しているかのような書き方もまずい。少なくともわが国では、戦後の一時期なんかより、現在のほうが、件数はずっと減っていますし、特に凶悪化しているという根拠もないはずです。社会環境の異なる外国の数字と、国内の話がごっちゃになっているように読めるのも良くない。世界の傾向と国内の実情はきちんと分け、できれば数ではなく、質のほうを問題にすべきだったと思います。

無理に他人の作った統計資料を根拠とするよりは、「悲しみの…」のように、著者の職業上の経験に基づいて論じたほうが、よほど説得力があったのではないでしょうか。主張はまともなのに、つまらないところで揚げ足を取られ、損をしているような気がします。

それにしても、ゲームの害を論じた本って、「ゲーム脳」にしろこの本にしろ、どうしてこう扇情的なタイトルがついているのかしら。「ゲーム脳のナントカ」は未読ですが、少なくともこの本の内容は真面目なものなのに、びっくりマークが四つくらい付いちゃいそうな題名が、まっくろな表紙に禍々しい雰囲気でどーんと並んでちゃあ、見るからにやらせっぽい…。逆効果じゃないのかなあ。


ところで、うちにも普通にゲーム機があって、子供も昔からそれなりにゲームをやってるので、私も脇からチラホラ見ていますが、ゲーマーの皆さんがおっしゃるように、ゲームそのものが害悪というわけではなさそうです(中にはかなりひどいのもありますが、それは書籍に猥本があるようなものです。すべてのゲームが悪いわけではない)。そこがやはり、麻薬とは違います。まあ、有益とも思わないけれど、トランプなどと同じように、何人か集まった時の遊びネタの一つですね。
種類を選び、限度を超えなければ、子供がやってもそれほど害になるとは思えません。

問題は「種類を選び、限度を超えなければ」←ここです。これが、簡単なようでなかなか出来ない。
子供もある年齢になれば、自己抑制がきくようになるし、第一ゲームばかりやってるほど暇じゃないので、自然と遠のきます。ほっておくとサルのようにやり続けて、ゲームから離れられなくなり、習慣化してしまう危険年齢は、せいぜい小学生くらいまででしょう。外部コントロールの必要な期間は、たいして長くありません。
しかし、そのわずかな期間、子供の行動と生活時間を管理できる家庭が、だんだん少なくなっています。

これは、家庭の教育力がどうのこうのという話じゃありません。共働きの核家族が珍しくない現状では、家庭が子供の行動を管理すること――時間を制限したり、よろしくないゲームを禁止すること――が、物理的に困難になりつつあります。だってパパもママもおうちにいないんだもん。
うちはゲーム機持ってないから/厳しく言ってあるから、大丈夫!と思っていても、親の留守に他の子が持ち込んだり、よその家に行ってやったりする場合もあります。
低学年のうちは、まだ大丈夫です。学童もあるし。でも、集団遊びが始まり、子供だけで遊びたがる年齢になると、コントロールは俄然難しくなります。子供はうるさい親がいない子の家に溜まりがちです。親が常駐している家の子だって、外へ出したが最後、絶対に大丈夫とも言えません。友達と遊ばせなければ、外へ出さなければ…もちろん、それはそれで、もっと問題です。

各家庭の自覚に訴えたところでどうにもならない現実がある以上、いっそ著者が言うように、何歳以下は禁止、と決めてしまうのも一つのやり方だと思います。
もちろん、そんな規則があっても、やらせる家はやらせるでしょう。高校生に酒を飲ます家があるのと同じですよねえ、監督。黙ってりゃわかりませんもの。
それでも、法律で禁止となれば、多少なりとも抑止力はあるんじゃないでしょうか。

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「私」の在り処

2007/04/13(金) 16:54:36

わたしを離さないで
カズオ イシグロ
早川書房 (2006/04/22)

終始、女性「介護人」であるキャシーの独白、つまり「わたし」という一人称の語りからなっています。
タイトルの「わたし」は語り手であるキャシーのことを指すのか。読み手に素朴な予想を抱かせつつ、物語は始まります。

「介護人」という言葉から連想するのは、老人施設の職員ですが、どうもそうではないらしい。彼女の介護の対象は、「提供者」という聞きなれない存在で、その中には、彼女の古い友人たちも含まれている。つまり、彼女にとって、介護の対象は、老人や障害者などではなく、年齢も境遇も自分と同類の人たちらしいということが分かってきます。
やがて話はキャシーの子供時代に飛びます。舞台はヘールシャム。寄宿学校とおぼしきその施設での、子供らしい平凡なエピソードが、次々に語られてゆきます。しかし、この種の学校にしては珍しく共学であることを含めて、彼女たちの置かれた環境や、教育内容などには、奇妙な点がいくつも見いだされる。
読者の予想に反する小さな齟齬が積み重なって、次第に異様な物語世界が立ち現れてくるのです。

語られないことの中にこそ語るべきことがあるという、巧みな修辞に驚嘆させられます。最後の種明かしでさえ、言及されない膨大な背景の中の、ほんの一部にすぎません。(たとえば、エミリ先生と車椅子の関係について。たとえば、キャシーが異例の長期にわたって「介護人」を務め続けることについて。)
シチュエーション自体は、SF小説の世界ではもはやありきたりなものですが、作者の目的は、未来社会への警鐘とか、科学技術に対する疑問などの表面的な部分にはなく、タイトルに示す通り、社会において、「あなた」でも「彼」でもない、人間ひとりひとりの存在の基盤となる「私=ME」の本質を考えさせることでしょう。

この物語を、人種隔離政策や格差社会、アメリカのイラク支配、あるいはまた、解説にあるような英国の社会思想問題になぞらえることもできるし、もっと広く、個人の生活や感情までもが当たり前のように切り売りされる、現代の経済社会そのものと見ることもできます。
キャシーたちのルーツであるヘールシャムは、私たちが既によく知っている世界なのではないかと思えてきます。

SF的な架空の設定の上に小説を構築するのは、もともとSF作家に分類されるイーガンやレムなどがそうですし、アーサー・クラークにも一部その傾向がありますが、彼らの作品が、人間の存在の内面に分け入って、形而上的に深化するのに対し、この小説の主題は、普遍的な社会と個人の問題に還元され、虚構でありながら虚構でない。あくまでも現実社会とリンクしているところが、この著者らしいと思います。

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法廷闘争

2007/04/04(水) 18:43:53

子供の眼〈上〉
リチャード・ノース パタースン 東江 一紀 訳
新潮社 (2004/01)


女性弁護士のテリは、最低男のリッチーとようやく離婚にこぎつけたものの、一人娘の養育権を相手側に奪われ、娘可愛さに元夫との腐れ縁をなかなか断ち切ることができずにいた。せっかく憧れの上司であるクリスと相思相愛になったのに、次から次へと金の無心を畳み掛け、クリスやその息子カーロにまで嫌がらせを仕掛けるリッチーのせいで、憂鬱の種は尽きない。「あんな男、死ねばいいのに!」テリの堪忍袋の尾も切れかけた矢先、当のリッチーが、別人のように気弱な反省文を残して、突然自殺した。
リッチーらしくない死に方に不審を抱きつつも、とりあえず心の重石が取れてほっとするテリ。しかし、案の定、警察は他殺を疑い、動機のあるクリスが容疑者として検挙されてしまった。
有力な証拠を掴んで高圧的に迫る検察に対し、クリス側も腕利きのマスターズを弁護人に立てて応戦するが、複雑な利害と感情がからみあって、関係者全員を巻き込んだ裁判の行方は、二転三転する。
悪霊よろしく、死後もなお皆を悩ませるリッチー。テリとクリス、そして子供たちにに安らかな生活が戻る日はくるのか。また、リッチーの死の真相はどこに。


人物像がアニメ級に類型的。善玉悪玉があまりにもはっきりしすぎて深みに欠けるし、謎解きも大したことないのでミステリ性もいまいち。ただし、元弁護士の著者の手になるだけあって、法廷シーンに圧倒的な迫力があります。
事件もロマンスも、全部オマケのようなもので、目玉は検察と被告側弁護士の知恵比べ。本書の主人公は、実はクリスでもテリでもなく、超敏腕弁護士キャロライン・マスターズでしょう。
陪審団を相手に、(被害者以外)誰も傷つけることなく、不利な状況をどうやって覆すのか。判決の行方は、最後まで予断を許しません。

陪審員の選定を始め、検察や司法との駆け引き、証人の扱いかた、陪審へのアピール、未成年者への配慮など、裁判にまつわるあれこれが丹念に書かれてあって、たいへん面白く読めました。

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下足番

2007/03/30(金) 23:35:41

 
鴎外と茂吉(book)
posted with amazlet on 07.03.29
加賀 乙彦
潮出版社 (1997/07)

森鴎外、斉藤茂吉をはじめ、木下杢太郎、水原秋桜子ら、医師と文学者という二つの顔を持った人々についてのショートエッセイ集。

医学者としては不遇で、その懊悩を文学へ向けた鴎外、二つの世界に同時に身をおくことで精神のバランスを取った茂吉、最終的に文学を捨て医学を選んだ杢太郎とその逆を行った秋桜子、貧乏医学生の生活費稼ぎの売文が、思いがけない果実をもたらしたチェホフなど、同じ二足の草鞋も履き方はさまざまですが、いずれも、まったく方向性の異なる世界が、"人間"を中心につながって、作品に独特の個性と奥行きを与えているのは面白いことです。
医者の世界を知る著者の目の付け所、読み解き方も、素人とは一味違って楽しい。デュアメル読んでみたくなりました。
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日陰の男

2007/03/23(金) 16:30:45

山本勘助
山本勘助(book)
posted with amazlet on 07.03.15
平山 優
講談社 (2006/12/19)

風林火山、毎週熱心に鑑賞しております。勘助さん、カッコいいですね…って、あれ?本来二枚目役じゃなかったよね。まあいいや、内野くんなら何でも。
最近ようやく若殿様のご尊顔にも慣れました。ナンノの湖衣姫も納得いかなかったけど、今回のヒロインもいまいちですね…。まあいいや、内野くんが出てれば何でも。

というわけで、歴史のおさらいです。といっても、山本勘助なんて、実在したかどうかさえ定かでない小者ですから、この本が取り上げているのは、史実そのものではなく、勘助キャラ確立の大元となった「甲陽軍鑑」における勘助像です。
勘助を信玄の片腕にも匹敵する大軍帥と持ち上げている後世の軍記物語とは違って、甲陽軍鑑での勘助は、身分的には一兵卒に過ぎません。ところが、にもかかわらず、武田家の軍事の中心人物であり、白兵戦での武術から、大軍を率いての操兵術、あらゆる戦法・戦略、果ては城造りに至るまで、およそ戦に関する知識をすべて網羅した、博学多才の驚くべき知恵者として描かれているという大矛盾。
この矛盾ゆえに、近代になって、勘助の存在自体が虚構だという説が主流になったのですが、近年、実在の証拠と考えられる資料が発見されたりもして、実のところ、未だによくわからない。わからないので、それはひとまずおいて、本書は、甲陽軍鑑における、彼の軍事研究をまとめて紹介したものです。

簡略ながら、「歴史読本」の愛読者的な素人歴史ファン、ないしは軍事オタクに楽しいウンチクが満載。私は特に図解を交えての「城取り(築城法)」の章が面白かったです。

しかし、それにしてもうさんくさい。
ただの足軽が、どうして大局的な戦術論を語れたり、築城術を分析できたりするのか。諸国を漫遊して、知識が豊富というだけならまだしも、甲陽軍鑑によれば、その(当時としては)膨大な情報を、勘助個人が体系化したことになっています。

ドラマの勘助を見ていても、腕っ節が強くてちょっと気の利いたアイデアマンという程度で、のちの知恵袋としての勘助像には、どうしても結びつかないんです。かっこいいから許すけど。
だいたい、腕っ節の強い、という点だけとってみても、足が悪くて隻眼、というだけで、兵法者としては大変なハンデですよね。果たして、あんな体でそんなに強かったんでしょうか。

    ・・・・・・・

さて、ここからは妄想です。
ドラマの中で、あっちの国をウロウロ、こっちの国をフラフラしては、いろんな大将に接触し、「お役に立ちますよ」ってなことを言って歩いている勘助を見て、フト思ったのですが、この人のやってる本当の仕事って、実は諜報活動だったんじゃないだろうか。というか、実は諜報組織の領袖か何かで、彼のやってる猟官活動は、彼個人ではなく、彼の背後にある集団が、どの国につくかという話じゃなかったかと思うのです。

だって、変でしょ。兵力として雇用するなら、あの体を見てまず食指がうごくはずがありません。軍略に関してだって、今の会社組織で考えても、新入りにいきなり大事な仕事の話なんてするかしら。どこの馬の骨とも知れない一介の浪人を相手に、殿様が直接あれこれ相談するなんて不自然です。
しかし、「勘助」を、個人としてではなく、恐らくは主に諜報活動を専門とする技能集団の代表とすれば、彼が殿様に接触したり、軍事上のアドバイスをしたりするのも納得できます。彼の武力が彼個人のものでなく、彼の集団の持つものと考えれば、領袖たる彼が障害者であっても不自然ではありませんし、大量の情報や、緻密な分析も、その集団の財産としたら、驚くほどのことではありません。

もしかすると、今川の騒動は、勘助一味が実行犯だったのかも。そして、そのことを知った義元が、いくら自らが権力の座につくためとはいえ、身内の殺害に直接手を下した勘助(とその集団)に不快を感じ、遠ざけたというのが、あの不採用の場面の真相だったかもしれないですね…なんて。

あちこちを渡り歩いたあげく、勘助軍団は最終的に武田につくことになる。そして、彼の率いる集団が持っている情報とノウハウが、すべて武田のものになる。
信玄の偉さは、本来なら陰の存在である勘助の功労を認め、小者とはいえ、一応の身分を与えて「表」に出し、彼の集団を公式に配下に従えたこと、そして、おそらく、家持ち・土地持ちの一般の士分と違って、何かと軽んじられがちな彼らが蓄積する情報やアイデアを、正式に採用したことではなかったでしょうか。

勘助個人は合戦中に命を落とす。しかし、その後も彼の配下の者たちは、武田にとどまり、諜報活動に従事する。やがてその中の一人が、自分たちの記録としての「軍鑑」を編むにあたり、武田に所属するきっかけを作った「勘助」を主要人物に模した…と考えれば、甲陽軍鑑の矛盾も矛盾ではなくなります。

勘助さんが手下を率いて、「真田十勇士」みたいに大活躍とか、いいかも!…って、やっぱり妄想だなこりゃ。
なんて思ってたら、既に同じこと考えてた方があるんだな。
荒唐無稽な想像でもないかもしれないですよ。

  山本勘助はいなかった―「風林火山」の真実(book)
    山本七平 ビジネス社 (2006/11)


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若者を見下す小父さんたち

2007/03/16(金) 17:14:50

他人を見下す若者たち
速水 敏彦
講談社 (2006/02)

「マッタク、近頃の若いモンは!」というオジサンの例の愚痴です。
なんでこれがベストセラーになったんでしょう。若い人に売れたって、本当でしょうか。
一見まじめな研究っぽいですが、後半議論が堂々巡りになっているような気がするのは、私だけでしょうか?

本書のテーマである「仮想的有能感」の定義自体よくわからないというか、そもそもこれが、わざわざ定義づける必要のある「新しい概念」なのかどうか、はたまたこのような新語が必要なほど独自性のある論述なのかどうかも疑問です。
「仮想的有能感」とやらが、年齢ではなく「世代の」特徴だと言い切る理由もよくわかりません。

若者が昔よりキレやすくなっているのか、態度のでかい生意気な若造が本当に増えているのか、この本の内容だけではなんとも言えません。
私の記憶では、今よりも私の少女時代のほうが、男子はケンカっぱやかったし、若者は反抗的でした。学生運動なんて、子供がびびるくらい暴力的でしたよ。今の子はむしろ大人しくて素直。良い子すぎるくらいの印象なんですが。
陰で(ネットで)虚勢を張るくらい、大目に見てやったっていいじゃないですか。いずれ社会に出て、何度もたたかれれば、現実を悟ることになるんですから。

強いて言えば、タイトルがキャッチーです。編集に知恵者がいるんでしょう。でも、本の取り得がパッケージだけではしようがないですね。

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