しかし、俳優陣がおのおの、心理的にはかなりキツそうな役柄を、きっちり役柄として把握し、演じきっているのもすばらしい。その中心にあるのがもちろん、ヒロイン・ノーマを演じたグロリア・スワンソン。過去の栄光に捕われ、老いてなお若さに執着する女性像は、昔も今もありがちですが、無常と不変、老いと永遠の若さ、美と醜、威圧と恐れ、愛と憎しみ、尊大さと劣等感など、鏡に映った像のように相反するイメージの間を往き来する複雑なヒロインは、それこそ怪物的な奥行きを持つに至りました。
彼女の恐ろしくも哀しい結末には、ハリウッドという特殊な世界を超えて、普遍的な人間の業の深さを感じます。
売れない脚本家のジョーは、借金取りに追われて荒れ果てた大邸宅に逃げ込む。てっきり廃屋かと思ったそこは、往年の大女優ノーマ・デズモンドの住まい。
世間と隔絶し、朽ち果てた外構や庭の奥では、まるで時間が止まっているかのように、かつての銀幕の女王の王侯貴族のような生活がひっそりと続いていました。
いかにも当世(1950年当時)ふうのフランクなジョーの物腰と対照的に、女主人ノーマの態度や物言いは、時代がかっていて、大げさで、芝居の台詞のようです。無声映画では、まさにこのように、大きな身振り手振りで動いて感情を表現し、基本的には書き言葉の台詞を、独特のリズムで読み上げる、古典劇の様式が色濃く残っていたわけですが、プライベートでも念入りに舞台化粧をほどこし、スクリーンの演技のままに話し、ふるまう彼女は、まるで「銀幕の女王の日常」を演じているかのようです。
そう。撮影セットでしかお目にかかれないような絢爛豪華な屋敷は、世間と隔絶した彼女の一人芝居の華麗な舞台だったのです。
そこへ転がり込んだ、部外者のジョー。
長年、ヒロインの相手役が不在のために、物語は中断していました。幕を下ろすに下ろせない凍りついた舞台に、ようやく登場したハンサムな若い男。ジョーが女優ノーマ・デズモンドの愛人の座にすわるのは、至極当然の成り行きでした。それが現実にはどんなに不自然で薄汚れた関係であっても。
そして、屋敷の時間が再び動き出します。活気を取り戻し、死んだような隠遁生活から徐々に抜け出すノーマ。しかし、皮肉なことに、まさにそのために、外の現実を直視しなければならない瞬間が刻々と迫ります。自身のアイデアによる映画「サロメ」に主演する望みを持つ彼女は、無謀にも、映画界へ復帰する計画を実行に移すことにしたのです。一方、ジョーはジョーで、外の世界とのつながりを断ちがたく、彼女の目を盗み、彼女の手の届かぬところで、勝手に彼自身の脚本をつむぎ始める。
映画のシナリオといえば、主演スターを中心に展開する予定調和のお伽噺だった時代は、とうに過去のものとなっていたのです。
過去を閉じ込めた屋敷のなかでだけ、確かに信じられる非現実的な夢物語。
それは、ジョーの若い友人たち、ベティやそのフィアンセの持っているような、未来のある夢とは全く異質のものでした。
スター女優の座に固執するノーマ、脚本家としての成功をあきらめきれないジョー、そして、執事に身を落としてまでノーマをお姫様扱いすることで、自分自身のかなわぬ夢を守り続けてきたマックス。
結局のところ、大変奇妙な形で、三人は三人とも夢を実現したといえるでしょう。筋書きはジョーが作り、マックスが監督を務め、そして、もちろん主演女優はノーマ。
かくして映画は確かに脚本どおりの結末を迎えます。しかし、彼女はサロメではなく、殺された男もヨハネではありません。
年を食って人気の落ちた女優、嫉妬に狂って年下の愛人を射殺。
この悲喜劇は、大当たり間違いなしですが、残念ながら成功者は一人もいません。
結局のところ、彼女の最後の主演作は、彼女が軽蔑していた、今時の「小さな映画」。そして、かつては巨大な星だった彼女も、今や小さな映画におさまる、矮小な存在になりはてたということでしょうか。
いささか冗長とも思えるラストシーン、ノーマの長回しのアップが遂にはぼやけて終わるのは、もはや彼女がどんなに望んでも主役にはなりえないという皮肉なのか、それとも、本人が豪語していたとおり、現代の「小さな映画」にはおさまりきれないことを表しているのか。
ハリウッドにおける"名声"という名の毒を描きつつ、監督がノーマにあたえた最後の長い見せ場は、おそらくかつて監督自身を惹きつけた、絢爛たる大スターの時代、古き良き過去への愛惜の思いではなかったかと思います。