常世国往還記

本と映画のノート



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格差雑感

2009/02/11(水) 23:42:49

教育格差絶望社会 (洋泉社ペーパーブックス)
福地 誠
洋泉社 (洋泉社ペーパーブックス) 2006年


巷で話題の「格差の拡大」について、教育の側面から調査・分析したもの。
えげつないタイトルの割に、中身は穏健。ご自身のお子さんの中学受験体験が執筆動機となったようです。

目を引くのは、裏表紙の著者略歴。
開成中学を成績不振で退学、平凡な都立高校を卒業後、東大入学というと、いかにも華々しいリベンジのようですが、そこでまた勉強熱を失って…とまあ、表に回ったり裏に回ったり、実にコメントしにくい経歴の持ち主で、現在も専門分野のはっきりしないフリーライター。
こういう、いかにも学歴否定しそうな経歴のお父さんの子供でも、塾へ通って中学受験する時代なんですねえ。

最初に、格差社会の現状、続いて、家計における教育費の上昇と、かけた金額の高低によって、子供の将来に差が出てくるという、タイトル通りの主張を述べています。
読ませるのは、著者の経験もふまえた前半。主に足立区の現状を引いていて、なるほどと思わせます。
しかし、本書に書かれているような極貧家庭が、最近になって増えてきているという本書の記述は本当なのでしょうか。

少なくとも、私が子供の頃、周囲にはいつも一定数このような人々が居て、親は生活で手一杯、子供の勉強を見るどころじゃなかった。でも、そういう家の子が、どんどん落ちこぼれていったかというと、そうでもなかった。
小学校でも中学校でも、出自にかかわらず、多くの子供は普通にできたし、中には平均よりかなり上の子もいました。家庭の経済状況と、成績の良し悪しは、必ずしも比例してはいなかったのです。
ところが、四、五学年ほどあとから、様子が変わってきます。
分数の計算や、ひどいのになると四則演算がまともに出来ない、いわゆる「落ちこぼれ」が出てくる。それまで、知能に障害がない限り、どんな子でも出来ていたことが出来なくなったというのは、つまり学校での教育内容が変化したのではないかと私は考えています。

具体的に言えば、小学校教育から「定着」がなくなりました。
「復習は家庭でやらせてください」と言われる。それまで居残りさせてでも出来るようにしていたのを、各家庭に丸投げする。宿題のチェックが甘くなる。あるいは宿題が出ない。わかっていなくても出来ていなくても、そのままになってしまう。テストは○×と点数がついて返されるだけで、間違えたところのフォローをしない。作文は書かせっぱなし。
最終的には、到達度を示す成績表がなくなります。子供の学校生活を、日ごろから細かくチェックしない限り、子供の学力レベルがわからなくなってしまいました。

実は過渡期には、家庭の経済力よりも、教育への関心の大小のほうが、子供の学力に影響していた時期がありました。当時「インテリは出遅れる」というフレーズがありまして、高学歴の親ほど危機感に乏しく、子供の教育に対する手の打ち方が遅い。自分の成功体験に照らして、「そのうち勉強するようになれば、成績も上がるさ」なんて、学校任せで呑気に構えていると、子供は基本のキでつまづいていて、気が付いたときには、既に挽回が困難になっていることもありました。

しかし、じきに、余裕のある家庭では、家庭教育の体制をととのえるなり、塾や家庭教師を手配するなりして、事前に対策を打つのが当たり前になります。いわゆるダブルスクールの一般化。この頃から、家庭環境や親の経済力が、子供の学力に直接反映するようになったのではないでしょうか。
一方、小学校では顕在化しないが、実は基礎の出来ていない落ちこぼれの子が中学に上がると、授業に全くついていけない。「お客様」状態の彼らは、反抗期も手伝って、自棄になって暴れだし、公立中学が荒れ始める。
あんな学校へは出来ればやりたくないというので、中学受験が普及し、教育はますます金のかかるものになります。

実のところ、一部の能力の高い子供は、自力で理解し、自力で学習することができるので、「定着」などなくても困りません。
公立の「トップ高校」の生徒の中には、少なからずこのような者が含まれていますが、彼らの将来が、家庭の経済状況によって左右されるかといえば、それほどでもないのです。学力の高い生徒は、少子化も手伝って、国公立大学進学に限らず、奨学金なり、特待制度なり、安上がりで有利な進路をいろいろと選択できます。実績ほしさにタダで入れてくれる塾・予備校すらあります。
「学歴を金で買う」状況は、上位層にとっては、著者が言うほどではありません。(「鉄」に行かなくてはなどというのは、ほとんど都市伝説です。あれは非常に特殊な塾で、好みが分かれます。)

現在都立高校などで熱心にやっている改革は、単に私立中学に流れていた優秀層を呼び戻すだけで、公立小中学校教育における経済格差問題の解決にはつながらないでしょう。
公立高校から東大に何人入るなんていうのは、正直どうだっていいので、問題の大元は、公立小学校での経済格差と学力の関連性にあります。
本書にあるように、校区内の経済状況と平均学力レベルには、明らかな相関関係が見られる。それは、現在の初等教育を何とかしない限り、公立高校の進学実績がいくら上がっても、中学受験率が減っても、おそらく改善はしないでしょう。
いやな言い方ですが、いわゆる「下流スパイラル」を解消することも、不可能と思われます。


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駆除される人類

2009/02/01(日) 23:26:18

深海のYrr 上 (1) (ハヤカワ文庫 NV シ 25-1)
フランク・シェッツィング 北川和代訳
早川書房 (ハヤカワ文庫) 2008年

南米の沿岸域で、原因不明の小型船遭難事件が相次ぐ。
同じ頃、地球の反対側、ノルウェーの海洋生物学者ヨハンセンのもとに、海底のメタンハイドレート採取業者から、新種のゴカイが届けられた。微生物を主食とする動物には不釣合いな、大きな顎を持つ珍種に、ヨハンセンは首をひねる。いったい、この顎はなにをするためのものなのだろうか。
一方、カナダ西岸ではホエールウォッチングツアーがクジラやシャチに襲われ、多くの死者を出すという悲惨な事件が起きた。ツアーの監修をしているクジラの研究者アナワクは、クジラたちの行動に明確な敵意を感じて衝撃を受ける。さらにフランスで、猛毒の微生物に感染したロブスターが破裂し、調理人が死亡した。病原体は水道水に侵入し、感染が爆発的に拡大していく。
はるか昔、生命をはぐくみ、人類に変わらぬ恵みをもたらしてきた海が、唐突に牙をむいたのだ。次々とやってくる「海からの危難」に、世界はなすすべを知らなかった。


生物・地学系の新知識を軸にしたSFパニック小説。
この手の話は故マイクル・クライトンの独壇場かと思っていましたが、意外にもドイツの、しかも全く畑違いの大衆作家の手になるものです。
各巻500ページ超の大作ですが、大事件・大惨事の連続、巻ごとに二つか三つの山場があり、緊張感がゆるむことなく、最後まで一気読みです。

素人さんとはいえ、かなりがっちり調べて書いていますので、知識面でも読み応えがあります。ただし、下敷きになっている研究成果を事細かに説明しているにもかかわらず、グラフ・数値等の資料を捏…もとい、創作できないところが、クライトンとの最大の違いか。地図くらいは入れてくれてもよかったのにな。
基本はベルヌやウェルズをなぞったといってもいいほどの正統派SF小説に、現代風の手に汗握る大仕掛けなアクション&サスペンスを加味し、ラヴクラフトふうの薄気味悪い海洋ホラーで味付けという、サービス満点のエンタテインメント。
欧米ものらしく聖書のメタファー(相当皮肉のきいたキリスト役ですが)へと収束し、小説的な小難しさも全くありません。

登場人物が多いこと(人物一覧と首っ引き)と、あくまでもストーリーが主体で、これといった主人公はいないことくらいが要注意事項でしょうか。
主役級の人物を惜しげもなく捨てていきますので、特定のキャラクターに思い入れるとがっかりします。人間ドラマとしては淡白ですが、そこにこだわっていたら分量が倍になって、スピード感も半減してしまったでしょう。パニック度からいって、主要人物が誰も死なないというのは不自然ですし、展開上しかたありません。
誰が残るのか、誰も残らないのか、結末が全く予測できませんでした。

クジラやイルカの保護、乱開発や不法投棄が引き起こす諸問題などの話題から始まりますので、これはエコ小説かと思いきや、後半一転、正反対の方向に走り出してびっくり。
人間の描くものは人間の文化を反映するというお約束の通りに、人類をおびやかす至高の存在「イール」は、自然をよりよく支配しコントロールするという、西欧社会の伝統的な命題の反映です。
それと関係するのかどうか、この作者は、アジア人嫌いと見た。一見国際色豊かな研究チームも、よく見ると欧米以外はエスキモー・インドなど、英米に植民地化されたことのある地域の人だけなんですよね。
話がクジラがらみなので、捕鯨国日本を排除するのは仕方ないとしても、中国あたりはまぜてもよかったのでは。共産主義と帝国日本は、ドイツのトラウマなのかしら。
そのへんが、この作者の限界かも、と思いました。


映画化予定だそうですが、二時間に収めるには話が複雑すぎるので、かなり端折った内容になるでしょう。
映画の脚本が原作を超えることはないと思いますが、うまくいけば映像的には、「パーフェクト ストーム 」どころではないスペクタクルです。これは断然、劇場で見るべきでしょう。

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金融の宿痾

2009/01/24(土) 12:20:09

昭和金融恐慌史 (講談社学術文庫)
昭和金融恐慌史(book)
posted with amazlet at 08.12.13
高橋 亀吉・森垣 淑
講談社(講談社学術文庫)

その一
現代人の品格がどうとか、拝金主義がどうとか言いますが、人間の本質ってそんなに変わるものじゃないですね。
明治生まれの人たちが起こした昭和恐慌も今の金融恐慌も、時代背景の違いこそあれ、根にあるものは同じです。どの時代にも、どの世界にも、欲につられて行動する人と、そうでない人と、二種類の人間がいるというだけ。そして、見たところ、そうでない人種のなかにも、たまたまそのような機会がなかっただけの人と、強い信念を持って、欲望に背を向けて生きる人の二種類があって、後者はほんとにほんとに、ごくわずかだと思われます。
昔々、もう見るからに学問一筋、世間のごたごたとは一線を画して生きておられるものだとばかり思っていた高名な老博士が、「相場に手を出して大やけどしたことがある」とおっしゃっているのを聞いて、私はショックでしたよ……。
だから、ウォール街の失敗について、そこらへんの人たちがこぞって批判するのって、どんなものだろうか。

その二
著者は、特定の企業の金庫番として発生した明治の銀行の前近代的な体質に、恐慌深化の原因を求め、銀行の企業への隷属体質を改めれば問題が解決するという、楽観的な見方をしていますが、それほど簡単な話なのでしょうか。
確かに、特定企業とのパイプを断ち切れば、最初の融資決定の段階では健全な取捨選択がはたらき、資金を入れるべきところに入れ、そうでないところへは貸さないという「まともな」判断もできるでしょう。
しかし、昨今の黒字倒産の事例などを見ていますと、一定の好景気の期間を経たあとで、下向きに転じたさいには、やはりどうも、健全な取捨選択は難しいのではないかという印象です。

たとえばここに、今回の恐慌以前にすでに経営が悪化していたAという会社があります。好景気に急成長した会社で、銀行はたくさん融資をしていますが、ずさんな経営のせいで事業に破綻をきたしています。このまま金を入れ続けたところで立ち直る見込みはないので、銀行も見放していて、更生法申請は目前だったのですが、そこへ恐慌が起きました。すると、この会社の業績不振も、マーケットからは他社同様に恐慌起因のものとみなされて、表面的には目立たなくなってしまいます。
一方、銀行を始めとする金融機関は、恐慌のおおもとである資金運用の失敗から大怪我をします。そうなるともう、A社は潰せません。ここでA社が潰れたら、中身は既に死に体ですから債権ごとふっとんでしまい、A社に貸し込んでいる銀行は、ただでさえ弱っているところへ更に打撃をこうむります。致命傷になるかもしれません。いきなり倒産されたくないので、ちまちまと運転資金のリファイナンスで延命させるよりほかはありません。
逆に、経営はそこそこ健全だったのに、たまたまマーケットの大暴落で苦境に陥ったB社の場合は、ほんの数億のリファイナンスを蹴られて倒産してしまいました。今はできれば貸したくない銀行側の事情と、中身のしっかりしたB社なら、潰してもそれなりに債権回収できる見通しがあったから。B社はA社よりも「ちゃんとしていたから」融資を断られた、というはなはだ理不尽な状況が発生したわけです。

結局のところ、銀行が独立した存在であれなんであれ、民間の一企業であるかぎり、彼らの融資を受ける一般企業の「適者生存」なんていうのは絵に描いた餅で、金融機関の「お家の事情」優先は避けられません。
いささか話は飛びますが、評判の悪かった護送船団方式にしろ、今は無き興長銀にしろ、バブル後の公的資金注入の過程で手放した種々の政府(or官庁)主導型の金融システムは、そもそもこういった弊害を是正するための仕組みだったのでは、と今更ながら思ったりします。


さて昭和恐慌に戻りますが、この混乱のあおりをくらって、祖母の実家は倒産しました。江戸時代から何代も続いた商家だったのですが、あらいざらい差し押さえられて、持っていかれたそうです。家だけがかろうじて残り、幸い戦災には遭いませんでしたので、戦後も長く、朽ちかけた女中部屋だの使用人の部屋だの厩だのが、往時の繁栄のおもかげをとどめていました。破産当時の一族のショックはいかばかりであっただろうかと思います。
この事件が教訓となって、終戦時に外地にいた祖母は、玉音放送を聞くやいなや、敗戦の衝撃もものかは、銀行にかけつけて預金を全額引き出してきたというひとつ話があります。
彼女は金融機関というものを信用していませんでした。金融機関の扱う有価証券も貨幣さえも信頼せず、使える間にさっさと使ってしまい、最後まで抱え込んでいたのは「モノ」で、これをさまざまなモノやサービスと交換しながら、彼女の一家はどうにか全員無事に本土に引き揚げ、戦後を生き延びてきたのです。
敗戦によって、国というものに対する信頼も地に落ちた時代を生きた人です。今も存命だったら、預金保護なんて何の保障にもならない、家族が大事ならさっさと預金を引き出しておいでと、叱りつけられたかもしれませんね。


昭和恐慌が遠因のひとつとなって、日本が無理な戦争への道を歩みだしてしまったことを思うと、経済の混乱は単に経済の世界のみにとどまらない、はかりしれない影響力を秘めているわけで、今回の世界恐慌もこのさきどのような未来へつながるのか、空恐ろしい気がします。

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ラピュータの住人

2009/01/21(水) 13:52:30

容疑者Xの献身 (文春文庫 ひ 13-7)
容疑者Xの献身(book)
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東野 圭吾
文藝春秋 (文春文庫 )

まずは比較的新しいところから。といっても、これは何年も前のハードカバーを昨年文庫化しただけだから、実は新しくもなんともないのですが。

えー、たいへんよく売れております。探偵ガリレオシリーズの短編がTVドラマ化され、まだどうにか二枚目役が張れるフクヤマ君が主演したのが大きかったです。フクヤマ君はドラマに出始めた頃から注目しておりまして(もうかれこれ20年前か…)、まあファンといえるかもしれません。
初めて見た「KYなエリート若手社員」役(超生意気)があまりにもはまっていたため、私の中では「変な人」の印象で固まってしまっております。及川光博さんに近いイメージです。ミュージシャン志望で上京したのに、音楽ではうまくいかなくて、仕方なく出ていたドラマで人気者になったら、CDも売れちゃったんでした。よかったね。歌は少々アレですが、それもそのはず、本来はギタリストなので、ギターはなかなか上手なんですよ。大昔(10年以上前)、NHK-BSのマニア向け洋楽番組で弾いてるのを初めて見たときはびっくりしました。当時は話もオタクそのものでした。やっぱり変な人です。

というわけで、理論物理学?のガリレオ湯川先生役は、ぴったりのキャスティングだと思いました。柴崎コウちゃん演じるお相手役は、原作では北村一輝さんの役と合わせて一人の若手刑事で、ガリレオ先生とは大学同期のサークル友達という設定です。ということは、あの刑事さんはキャリア組なんだねえ。
ドラマ的には花も必要ですから、コウちゃんはあれでいいとして、残念なのは北村一輝さんがフツーの人役をやってること。フツーじゃないでしょ、あの人。黙って出したら、これが犯人かと思うじゃないですか! 彼を使うなら、もっととんでもない設定にしてもらいたかったです。今年のNHK大河ドラマのキャスティングも、ほんとにどうかと思うよ! ああ、「時宗」のときの頼綱はよかったなあ。
まあ、あんまり強烈な役を当てて、主役を食っちゃっても困るか。

さて、ドラマと同じ配役で昨秋映画化された「容疑者X」(映画は未見)です。
このシリーズはどれも「ネタのためなら何でもやります!」的な、超人的にマメな犯人が出てくるミステリで、推理には整合性があってもストーリーには無理があります。シリーズ初の長編である本作もご多分に洩れません。
不遇の「天才数学者」という設定の中年男が、隣の年増美人に惚れるのですが、その惚れ方たるや、純情を通り越して何か病的なものを感じさせます。理系男子の大半がアニオタであるというのは現代の常識ですが、この中年男の場合も、対象が三次元という違いはあるものの、根は同じと思われます。
一般にこの手の人は、頭は良くても日常生活では「使えない」ものなのに、この先生は驚くほど有能で、経験もないのに何でも手際よくできちゃうのが非常に嘘くさい。頭で考えることと、現実に手を動かすことって、本質的に違うでしょ。「以上はすべて、隣の痴話喧嘩を盗み聞いた彼の妄想でした」ってオチなら、ベタだけどとっても納得だったのにな~。

さんざん理詰めで進んできて、ま、これはお話よりも理屈を楽しむ今様「ホンカク」だからね、と思っていたら、ラストがアレですよ。泣けますか? 私は違う意味で泣きたくなりました。


ところで、「犯人がいっしょけんめい頑張って隠蔽し、探偵がそれを崩す」という通常のミステリのパターンを、完全にひっくりかえして、無茶苦茶おかしかったのが、昨秋のドラマ「33分探偵(DVD)」です。
探偵が時間いっぱい使って、苦心惨憺、真犯人がやりそうなトリックや隠蔽工作を案出しますが、助手からも証人からも、そして犯人からさえ「無理。」と否定されてしまうのです。
古典ミステリのネタが次々と槍玉にあがります。そーだよなー、無理だよなー。

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異国にて

2007/06/12(火) 19:28:34

カフカの友と20の物語
アイザック・B. シンガー 村川 武彦 訳
彩流社 (2006/06)

ユダヤの民族文学作家による短編集。
シンガーは1978年度ノーベル文学賞受賞、日本では児童文学の分野で知られる作家で、何冊か翻訳も出ています。
なんと、80年代の映画「愛のイエントル」(バーブラ・ストライザンド主演)の原作者でもあるのですね。旧弊なしきたりに逆らい、男装してまで学問を志す、勇ましい女性の自立を描いた作品で、けっこうヒットしていたのを思い出しました。

戦前から戦後にかけて、移りゆく世界にあるいは逆らい、あるいは流されるユダヤ社会を舞台に、市井の人々の日常の哀歓をつづった作品群ですが、宗教で結びついている彼らの精神世界を反映してか、神話のような、おとぎ話のような、素朴な幻想の香りが漂います。
味わいは異なりますが、ルーマニアの作家エリアーデなどにも、近い雰囲気が感じられ、東欧の精神風土に思いをはせたことでした。

非常に残念なのは、かなりの部分、文章が日本語になっていないこと。
英訳本(原文はイディッシュ語)からの二重翻訳であるためなのかもしれませんが、それにしてもテニヲハの間違いまで散見するのは、素人目にもちょっとひどい。
せっかく良い作品集なのに、もったいないです。どうせなら違う訳で読みたかった。


カフカの友: カフカの親友だったと称する落魄した男の、現実とも妄想ともつかないとりとめのない話。閉塞状況と奇妙な楽観がないまぜになった不可思議な感覚です。

ある冬の夜の客: つましい家庭に突然のりこんできて、居座ってしまった家なしの伯母さん。招かれざる客の、社会慣習とも道徳とも離れて、自由に与え与えられる屈託の無い生き方に、宗教的な理想世界が浮かび上がります。

: 社会に背を向け、自分ひとりの世界に閉じこもるかたくなな老女の絶望。前作の伯母さんとは対極の生きかたを描きます。世の中は、自分自身の心の反映であるということでしょうか。

ベーベル博士: 生まれながらのボヘミアン、伊達男の独身者ベーベル博士に突然訪れた「幸福な人生」のてんまつを描く笑話。幸せも所により人によるというお話。

ストーブを囲んで聞いた話: ユダヤ社会の伝統を垣間見る、民俗色豊かな作。ユダヤ教の学び舎に集う人々が、冬の夜長、こもごもに語る奇談。シンガーという作家のルーツを物語るような作品です。

カフェテリア: ブロードウェイの片隅にある、同胞たちが集うカフェテリアを舞台に、作者の分身とおぼしき成功したユダヤ人作家と、薄幸の女性との、途切れ途切れの淡い交情。中編映画になりそうな、美しく哀切な一篇ですが、残念ながら日本語が崩壊しています。

教師: アメリカで成功した「わたし」は、建国間もないイスラエルを訪れた折に、故郷で教え子だった女性と再会する。彼女の破綻した結婚生活を通して、現代のユダヤ人社会がはらむ矛盾を描いたもの。

: ドバトがほんとうに大人しくて無害かどうかはさておき、ユダヤ人迫害の暗雲が垂れ込めるポーランドで、鳩たちと静かに暮らすやもめの教授を襲う災難。ホロコースト前夜の不吉な物語。

煙突掃除夫: 働き者の煙突掃除人ヤシュが、ある日突然千里眼になっちゃった! 実直な庶民社会のヒーローをめぐる愉快な寓話。

: 宗教上の規律にのみ生きがいを求める男の運命。ユダヤ教の正統派のあまりにも煩雑な慣習を皮肉っています。

アルテレ: 祖母に育てられ、古い風習に従って生きる女性アルテレがたどる奇妙な人生。ジプシーと呼ばれる人々のバックグラウンドを見るようです。

冗談: ニューヨークに住む雑誌発行人が、ふとしたことから、ベルリン在住の真面目なヘブライ語学者にいたずらを仕掛ける話。お堅い学者のロマンチストぶりを笑うという趣向が、意外な方向に進んで…。

めかし屋: 常軌を逸した見栄っ張りで人生を棒に振る女の話。しかし、ここまでやれば立派という気もする、というオチです。

シュロイメレ: 渡米したものの、未だ売れない作家の「私」に「イエントル」舞台化の話を持ちかけてきた演出家のシュロイメレ。暗い世相を背景に、成功を夢見る二人の同病相哀れむ友情を描く脱力小説。

植民地: アルゼンチンのユダヤ人入植地(なんてあるんだ!)を訪れた「わたし」。古い家業も習慣も捨て、現地に同化して、現代社会のどこにでもある悩みをかかえる若い層と、どこへ行ってもユダヤ人でありつづける古い人々との対比を描きます。

涜神者: 信心深いユダヤ人庶民家庭に生まれた現代的な知性の悲劇。筋金入りの反抗期。

賭け: くだらない賭けで人生を狂わせた男。これも放浪者の物語です。

息子: 別れた妻が連れて行った息子との、二十年ぶりの再会に緊張する「わたし」。長い年月ののち、再び生きてめぐりあう運命の不思議と、ことばやかたちにならない父子の絆。

宿命: これはどこかで読んだことがあるような気がするのですが。情の濃い女性の報われない愛の悲劇、と見せて、実は普遍的にありそうな怖い話です。

神秘的な力: 神秘的な感応力を授かったために、過去にまつわりつかれる男の無間地獄。

そこに何かがいる: 神なき時代にラビとして生きねばならない男の、魂の彷徨。彼が最期に見たものは。宗教が成立しにくい現代における、受難と救済を考えます。

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孤独な幽霊

2007/06/09(土) 19:21:02

悪魔のひじの家(book)
ジョン・ディクスン カー 白須 清美 訳
新樹社 1998年


淋しい海辺に建つふるい邸宅、緑樹館を舞台とした殺人ミステリ。

初版は1964年。カー晩年の作品です。なつかしのフェル博士とその相棒が登場、というところが主な目玉です。
変わり者の主人、娘ほども年の離れた美人妻、アメリカ育ちの甥、性格悪い小姑、わけありの秘書、有能な弁護士、だらしない医者、といった面々に、遺産相続ネタをからめ、カー好みのオカルト味をまぶした、とってもスタンダードな密室もの。
まあ、カーの水準作といっていいのではないでしょうか。

からくりは当たったけど、犯人を読み違えた! 
う~ん、現代小説なら、こうじゃないと思うなあ…。絶対ちがうでしょ…。

訳者は若い人でしょうか。ところどころ表現が気になります。
特に、エステル叔母さんの言葉遣い。いくら性格がくそばばあでも、一応旧家のお嬢様育ちなのだから、もう少し気取ってるほうがそれらしかったのでは。これじゃ下町のおばちゃんだわ。

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近世の医療

2007/06/05(火) 16:01:09

疫病(ハヤリヤマイ)と狐憑き
   ―近世庶民の医療事情

昼田源四郎 みすず書房 1985年

はしかの流行が騒がれている今日このごろ。私が子供の頃は、小学校・幼稚園でのはしか騒ぎは日常茶飯事でしたので、大した病気とも思っていませんでしたが、この本で「疱瘡は器量さだめ、麻疹は命さだめ」という近世のことわざを、久々に思い出しました。昔は大人でも死んじゃう病気だったんですね。
今、はしかで怖いのは、予防接種前の乳幼児、それから稀に大人もかかる脳炎といったところ。深刻な難病です。死に直結することが少なくなったとはいえ、やはりなめてはいけないようです。


奥州守山領(現福島県郡山市)の、江戸中~末期の公務記録「御用留帳」中、医療に関する記載を拾い出して丹念に分析した著作。
精神科の医師でもある著者によって、専門的な解説も加えながら、明治以前の地方社会における医療事情が活写されます。

東北の寒村のこととて、飢饉・流行病、また貧困に伴う間引きの悲惨や、おまじない程度の貧しい医療技術などは、おおかた予想通りですが、その一方で、医療従事者の数が、今日の基準に照らしても十二分であることや、精神病者への人道的な配慮など、「実はそうだったのか!」と驚くような意外な事実の数々。何事も思い込みはいけません。

殊に詳しいのは、著者の専門である精神医療の分野ですが、その中でも、心神喪失状態での犯行については、殺人を含め、本人の責任を問わなかったことなど、西欧医学の普及以前に、早くも近代的な精神病観が発生していたことは、特筆に値するかと思います。
被害者への同情のあまり、感情的に結果責任を問い、報復刑の発想へ傾きがちな現在、あらためて見直すべき歴史的経緯ではないでしょうか。

衛生指導や、他出中の病人の取り扱い、牢内の医療、少子化ならぬ間引き対策等、封建制のもと、「生産力維持のために農業従事者数を確保する」という、為政者のご都合主義的な側面があるとはいえ、領民保護の立場から、少なくとも形の上では、近代的な人権擁護に近い施策が行なわれつつあったことがわかります。
明治期における爆発的な西欧思想の普及は、維新以前の基盤あってのものだったのですね。

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仕掛け読本

2007/05/24(木) 17:10:53



読み方の難しい本です。

地下鉄サリン事件実行犯の豊田亨被告と、学生時代にそこそこ親しい関係だった著者が、豊田の側からオウム事件を見直し、この種の事件再発防止のために警鐘を鳴らす。
とまあ、そういうことになっているようですが、中で話が広がったり縮んだりして、結局いちばん言いたいことは何なのかが、よくわからない。別に言いたいことを一つにまとめなくたっていいのだけれども、あまりにも整合性に欠けていて、何がなんだか。

開高健ノンフィクション賞受賞作だそうですが、「ノンフィクション」でないことだけは確かです。
オウムに関する目新しい情報は、著者が立場上知りえた豊田被告の私的な側面のみ。特段のフィールドワークもなく、個人的な随想の域を出ません。
たとえば「アンダーグラウンド」などとは、加害者側から/被害者側から、という視点の違いのみならず、方法においても、全く逆のアプローチをとっています。
著者は村上春樹に対して批判的なようですが、そもそも違う次元に立っているのだから、かみ合わないのは当たり前です。


難解ではないが、とっても読みづらい。いらんもんがごちゃごちゃ混ざっていて鬱陶しい。うざいし変だ。
しかし不快さの底になんかあるような気もする。何だろうねこれは、とつぶやいたら、二号が言うには

「あー、これ書いたの、情報科の人だろ。狙ってやってんだよ。ヒッカケでしょ。情報科って、こういうウサン臭い話が多いんだよね~」

ああ、さよか。なるほど。
「相棒」と称する意味不明なツンデレ女子大生キャラも、過剰な悲憤慷慨調も、つまりこういう↓ことだったのかな。

「情動は思考より先に立つ」
だからお涙頂戴で釣りました。
「政府やマスメディアによるマインドコントロールって怖いよね」
ほらあなたにも根拠の不確かな被害者意識が! 
「團藤先生、立派な方です。生きた昭和史。三島を教えたこともあるって凄くない?」
すばらしい権威、思わずついていきたくなっちゃう。グル様、お導きください!(いえ、もちろん團藤先生が人格者でないと言いたいわけではありません。ただ、ご本人を直接存じ上げているわけでもなければ、著書の一冊も読んでいないのに、本書に書かれていることだけでそんな気分になるのはどうかということ。)
「この本、賞をとるくらいだから、すばらしいことが書いてあるに違いない」
でも実は、企画段階から、賞取る前提の出来レースだった。だから内容が「ノンフィクション」じゃなくっても無問題。(選者評を読みましたが、崔監督だけ空気が読めなかったのか、それともわざと反対役を引き受けたのか。何にしろ、本書の最終章にはいろいろと驚かされました。)
「このタイトル、よくわからないけど、なんとなくオシャレ。友情って大切だよね。海の表紙もきれい!」
ほら雰囲気にだまされた。パッケージは中身とほとんど関係ないでしょ。(サイレントって、誰が。豊田だって林だって、既にそれなりに語っています。それに、自ら語る内容が、必ず真実とも限らない。語ることによって何か解決するという保証もない。ちなみに、オウム事件に関して文字通りサイレントなのは、松本被告だけ。でも、松本はサイレント・ネイビーなんかじゃないし、著者も、松本に何か告白しろと言ってるわけじゃない。)

エトセトラエトセトラ。




結局、ボクもワタシも、オウムに取り込まれた豊田と同じでしょ。感覚や、イメージや、よさげな言葉や、既成概念や、先入観やらに、つい踊らされてしまうよね。そして、本当はよくわかっていないのに、わかったような気になってしまう。
もっと自分自身で、対象をよく見てよく考えましょう。うわべだけで、鵜呑みにするのはやめましょう。
何より、無反省のまま、脊髄反射的に行動するのはよくない。危険です。

――というテーマを学習するための、実習教材だったのですね、これは。


とても勉強になりました。謎のタイトルに惹かれて読んだ時点で、私も釣られて負けでした(笑)。
伊東先生、たいへんありがとうございました。

死刑制度をどのように考えるか、大学院制度を改革すべきか、など、個々の問題は、もっと広い視野の元で考えるべきでしょう。
また、組織犯罪の心理に関しては、ナチスの絶滅収容所をテーマにした「人間の暗闇」(これは本当に本当のノンフィクション)などと比較してみるのも面白いと思います。


ところで、オウムの一件以来なのかどうか、今の大学は、カルト宗教を過剰なくらい警戒していて、二号も入学以来、再三にわたって注意書きのプリントをもらいました。
「なんかさー、こういうのって逆効果じゃない? かえってチャレンジしてみたくなるというか」
こらこらこらこら。
そういう半端な好奇心が一番危ないんだよ。君子危うきに近寄らず。君子じゃないけど…とりあえず、そばに行くな、さわるな危険!

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死の夢をさまよう

2007/05/21(月) 18:38:10

血のささやき、水のつぶやき(book)
パトリック・マグラア 宮脇孝雄 訳
河出書房新社 1989.11

一時代前の小説のような、美文調をまじえた古風な趣の奇談集。
怪奇も謎も、すべて現実と夢(もしくは妄想)のあわいに漂い、確かなものは何も残らず、読む者を中空に置き去りにします。


天使: 売れない作家の「私」は、裏町で、いわくありげなゲイの老人と知り合う。彼は、若き日に出会った「天使」について語りだすのだったが…。
天人五衰の悲劇。ガルシア=マルケスの天使もひどい扱いでしたが、これはまた更に。く、臭い。

失われた探険家: 孤独な少女の秘密の友人。先の「天使」の流れで、主人公イヴリンの童心の喪失ととるか、あるいは彼女自身が探検家になりかわったと見るか、最後の読み方は分かれるところでしょう。

黒い手の呪い: 「インドへの道」のヒロインの脳内。異文化間に立つストレス、といっても、IT大国インドで、今どきこんなことを言っても始まらないけれど。

酔いどれの夢: 創作に悩むアル中画家の堕落。設定は古臭いですが、この作品集中最も現代的な短編。場末の風景が、悪と罪の心象へと転化していく過程を、まったりと綴っています。

アンブローズ・サイム: ある男の末路を、デッサンのように詳細な客観描写で。滑稽とグロテスクのないまぜになった、ブラックユーモア。

アーノルド・クロンベックの話: 若い女性記者による、連続殺人犯の死刑直前インタビュー。いや、まあこれは普通にやばいだろと思ってたら、案の定…。「ライフ オブ デビッド・ゲイル」のさかさまみたいな話。

血の病: 探検調査中にマラリアにかかり、九死に一生を得た人類学者が、めでたく帰国したんだけれども……おいおいおいおい、どこへいくんでしょうか、この話。まごまごしているうちに、畑の向こうに消えてった。

串の一突き: 自殺した孤独な叔父をめぐる謎。精神分析ネタをビシバシとコラージュしています。語り手の怒りもごもっとも。主治医がボンクラだと思う。分析そのものは当たってるのに、なんで気がつかないかなー。
精神分析の露悪趣味を皮肉った一編。

マーミリオン: 朽ち果てた屋敷にまつわる悲劇の伝説。「黒猫」やら「アッシャー家」やら、ポオのモチーフがいっぱいです。ゴシック・ホラーかと思いきや……。人間やめますか?

オナニストの手: クラブ「バビロニア」で巻き起こった罰当たりな騒動。この手が悪い。この手が憎い。聖書をネタにした2ちゃんねる的悪洒落。

長靴の物語: 核の時代の童話。閉塞した地下の箱舟における小家族の崩壊物語。

<蠱惑の聖餐=凄惨>: 「長靴の物語」の姉妹編です。人類の滅亡によって生まれる新世界。原題は腐敗とエロチシズムをひっかけた洒落で、神様はおりませんが。それはそうと、アリアドネは蜘蛛じゃなかったっけ?

血と水: 旧家を見舞う悲劇。正常と異常、正気と狂気、幻覚と現実が、合わせ鏡の像のように映し映される、混沌と理性の敗北。
ここに出てくるブロードムーアは、作者の父が医師として勤めていた精神病院とのこと。主人公の描写がやけにリアルですが、父上の患者さんがモデルでしょうか。

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敗軍の将の不在

2007/05/18(金) 22:17:59

検証 戦争責任〈1〉
読売新聞戦争責任検証委員会
中央公論新社 (2006/07)

二巻本の体裁ですが、続き物ではありません。
大東亜戦争全体にわたる、タイトルに沿った内容は(1)で、(2)はもっぱら個々の事実について、「敗戦責任」を批判したもの。おそらく(1)(2)それぞれ、別の時期に新聞紙面で連載した特集記事をまとめたのでしょうが、重複する部分も多く、やや冗長に感じられます。全部ひっくるめて編集しなおしてもらいたかったところです。

全体に、これまで刊行された種々のテキストのおおまかな総ざらえで、研究書といえるほどの深さはなく、物足りない反面、万人向けで取っ付きやすいのがいいところかもしれません。
特に(1)は、文体も中身も歴史教科書に毛の生えたレベル。「検証」を期待して手に取るとがっかりするかもしれませんが、さらっと全体を俯瞰するにはまずまずでした。

一読して思うのは、「責任」とは、検証したり研究したりするものではなく、誰かが取ったり取らされたりするものだろうということ。「検証」すれば、「責任」はどんどん拡散し、その所在は不明になってゆくばかりです。
誰かが取るのでなければ、「責任」は存在しないも同然です。
ドイツやイタリアでは、ヒトラーなりムッソリーニなり、事の中心にあった人物が死んでくれて、「責任」の問題が単純化されました。彼らを「責任」の中心に据え、あとはそこからの距離で軽重を計ればよかったからです。
彼らが戦後も生きていたら、(もちろん死刑にはなったでしょうが)いろんな条件が勘案されて、責任問題はもっと紛糾したのではないかと思います。彼らがどこまで独裁的であったのか、現在考えられているほど、すべての面において独断的に裁定していたのか、今となっては誰にもわかりません。

結局、戦争裁判はあったものの、日本では最終的に誰に責任があるのか分かりませんでした。事実がどうであったにせよ、また、自身がどう考えていたにせよ、天皇も一切責任を取ってこなかった。
そのために、部分的な責任ばかりが焦点となり、国民を含めた当事者全員にとって、戦争の発生も推移も、何か他人事のようです。そんなことから、靖国の合祀があいまいな基準のまま行なわれてしまったのではないかと思います。
個々の事象を掘り下げていけば、(1)巻末のシンポジウムにおける櫻井女史の発言に見るように、「日本だけが悪いんじゃないもん!」という話になるに決まっていて、それは史的研究においては正しい態度であっても、現在まで尾を引いている「戦争責任」問題を考えるにあたっては、全く意味をなしません。
同様に、個々の事実を洗い出して、個別の「責任者」を認定しようという本書の意図も、それほど意義のあることとは思えないのです。
スーパーバイザー気取りで、政府や軍関係者を弾劾したり、戦争の名称変更を提案したりする暇があったら、メディア自身の「戦争責任」を、自ら詳細に分析するほうが、よほど将来のためになったでしょう。

それにしても、これほど痛い目にあっていながら、日本というのは、懲りない国です。
アメリカの傘下という特殊条件を忘れて、飛躍的な経済発展を自力だけでなしとげたように思い込み、一部の私企業の成功を、国全体の快挙と見なし、借金まみれで食糧すら自給できないくせに、先進諸国と肩をならべたと勘違いしてる現在。
局地戦で一つふたつ勝ったくらいで舞い上がって、欧米に対抗できると考えた開戦当時と、精神的には大して変わっていないような気もします。
中国やインドが伸びてくるのは当然。彼らはもともと「持てる国」なのだから。あらゆる面で抜かれるのは時間の問題でしょう。辺境の小国・日本は、彼らと同じ土俵で対抗し、優位に立とうなどと無駄なことを考えず、たとえばシンガポールや、世界の金庫番スイスや、北欧諸国のように、堅実な独自の道を選ぶ冷静さを持つべきなのでは。
とはいっても、アキバ立国はちょっと願い下げだけど…。でも、それしかなければ仕方ないのかなあ。

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