常世国往還記

本と映画のノート



メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

カテゴリー

最新の記事

過去ログ

ブログ検索

FC2ブログランキング

RSSフィード

プロフィール

かもめ

Author:かもめ
読書と映画の鑑賞記録。
日記もちょっとだけ。








ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

スポンサーサイト

--/--/--(--) --:--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告

格差雑感

2009/02/11(水) 23:42:49

教育格差絶望社会 (洋泉社ペーパーブックス)
福地 誠
洋泉社 (洋泉社ペーパーブックス) 2006年


巷で話題の「格差の拡大」について、教育の側面から調査・分析したもの。
えげつないタイトルの割に、中身は穏健。ご自身のお子さんの中学受験体験が執筆動機となったようです。

目を引くのは、裏表紙の著者略歴。
開成中学を成績不振で退学、平凡な都立高校を卒業後、東大入学というと、いかにも華々しいリベンジのようですが、そこでまた勉強熱を失って…とまあ、表に回ったり裏に回ったり、実にコメントしにくい経歴の持ち主で、現在も専門分野のはっきりしないフリーライター。
こういう、いかにも学歴否定しそうな経歴のお父さんの子供でも、塾へ通って中学受験する時代なんですねえ。

最初に、格差社会の現状、続いて、家計における教育費の上昇と、かけた金額の高低によって、子供の将来に差が出てくるという、タイトル通りの主張を述べています。
読ませるのは、著者の経験もふまえた前半。主に足立区の現状を引いていて、なるほどと思わせます。
しかし、本書に書かれているような極貧家庭が、最近になって増えてきているという本書の記述は本当なのでしょうか。

少なくとも、私が子供の頃、周囲にはいつも一定数このような人々が居て、親は生活で手一杯、子供の勉強を見るどころじゃなかった。でも、そういう家の子が、どんどん落ちこぼれていったかというと、そうでもなかった。
小学校でも中学校でも、出自にかかわらず、多くの子供は普通にできたし、中には平均よりかなり上の子もいました。家庭の経済状況と、成績の良し悪しは、必ずしも比例してはいなかったのです。
ところが、四、五学年ほどあとから、様子が変わってきます。
分数の計算や、ひどいのになると四則演算がまともに出来ない、いわゆる「落ちこぼれ」が出てくる。それまで、知能に障害がない限り、どんな子でも出来ていたことが出来なくなったというのは、つまり学校での教育内容が変化したのではないかと私は考えています。

具体的に言えば、小学校教育から「定着」がなくなりました。
「復習は家庭でやらせてください」と言われる。それまで居残りさせてでも出来るようにしていたのを、各家庭に丸投げする。宿題のチェックが甘くなる。あるいは宿題が出ない。わかっていなくても出来ていなくても、そのままになってしまう。テストは○×と点数がついて返されるだけで、間違えたところのフォローをしない。作文は書かせっぱなし。
最終的には、到達度を示す成績表がなくなります。子供の学校生活を、日ごろから細かくチェックしない限り、子供の学力レベルがわからなくなってしまいました。

実は過渡期には、家庭の経済力よりも、教育への関心の大小のほうが、子供の学力に影響していた時期がありました。当時「インテリは出遅れる」というフレーズがありまして、高学歴の親ほど危機感に乏しく、子供の教育に対する手の打ち方が遅い。自分の成功体験に照らして、「そのうち勉強するようになれば、成績も上がるさ」なんて、学校任せで呑気に構えていると、子供は基本のキでつまづいていて、気が付いたときには、既に挽回が困難になっていることもありました。

しかし、じきに、余裕のある家庭では、家庭教育の体制をととのえるなり、塾や家庭教師を手配するなりして、事前に対策を打つのが当たり前になります。いわゆるダブルスクールの一般化。この頃から、家庭環境や親の経済力が、子供の学力に直接反映するようになったのではないでしょうか。
一方、小学校では顕在化しないが、実は基礎の出来ていない落ちこぼれの子が中学に上がると、授業に全くついていけない。「お客様」状態の彼らは、反抗期も手伝って、自棄になって暴れだし、公立中学が荒れ始める。
あんな学校へは出来ればやりたくないというので、中学受験が普及し、教育はますます金のかかるものになります。

実のところ、一部の能力の高い子供は、自力で理解し、自力で学習することができるので、「定着」などなくても困りません。
公立の「トップ高校」の生徒の中には、少なからずこのような者が含まれていますが、彼らの将来が、家庭の経済状況によって左右されるかといえば、それほどでもないのです。学力の高い生徒は、少子化も手伝って、国公立大学進学に限らず、奨学金なり、特待制度なり、安上がりで有利な進路をいろいろと選択できます。実績ほしさにタダで入れてくれる塾・予備校すらあります。
「学歴を金で買う」状況は、上位層にとっては、著者が言うほどではありません。(「鉄」に行かなくてはなどというのは、ほとんど都市伝説です。あれは非常に特殊な塾で、好みが分かれます。)

現在都立高校などで熱心にやっている改革は、単に私立中学に流れていた優秀層を呼び戻すだけで、公立小中学校教育における経済格差問題の解決にはつながらないでしょう。
公立高校から東大に何人入るなんていうのは、正直どうだっていいので、問題の大元は、公立小学校での経済格差と学力の関連性にあります。
本書にあるように、校区内の経済状況と平均学力レベルには、明らかな相関関係が見られる。それは、現在の初等教育を何とかしない限り、公立高校の進学実績がいくら上がっても、中学受験率が減っても、おそらく改善はしないでしょう。
いやな言い方ですが、いわゆる「下流スパイラル」を解消することも、不可能と思われます。


スポンサーサイト
読んだ本TB:0CM:0

駆除される人類

2009/02/01(日) 23:26:18

深海のYrr 上 (1) (ハヤカワ文庫 NV シ 25-1)
フランク・シェッツィング 北川和代訳
早川書房 (ハヤカワ文庫) 2008年

南米の沿岸域で、原因不明の小型船遭難事件が相次ぐ。
同じ頃、地球の反対側、ノルウェーの海洋生物学者ヨハンセンのもとに、海底のメタンハイドレート採取業者から、新種のゴカイが届けられた。微生物を主食とする動物には不釣合いな、大きな顎を持つ珍種に、ヨハンセンは首をひねる。いったい、この顎はなにをするためのものなのだろうか。
一方、カナダ西岸ではホエールウォッチングツアーがクジラやシャチに襲われ、多くの死者を出すという悲惨な事件が起きた。ツアーの監修をしているクジラの研究者アナワクは、クジラたちの行動に明確な敵意を感じて衝撃を受ける。さらにフランスで、猛毒の微生物に感染したロブスターが破裂し、調理人が死亡した。病原体は水道水に侵入し、感染が爆発的に拡大していく。
はるか昔、生命をはぐくみ、人類に変わらぬ恵みをもたらしてきた海が、唐突に牙をむいたのだ。次々とやってくる「海からの危難」に、世界はなすすべを知らなかった。


生物・地学系の新知識を軸にしたSFパニック小説。
この手の話は故マイクル・クライトンの独壇場かと思っていましたが、意外にもドイツの、しかも全く畑違いの大衆作家の手になるものです。
各巻500ページ超の大作ですが、大事件・大惨事の連続、巻ごとに二つか三つの山場があり、緊張感がゆるむことなく、最後まで一気読みです。

素人さんとはいえ、かなりがっちり調べて書いていますので、知識面でも読み応えがあります。ただし、下敷きになっている研究成果を事細かに説明しているにもかかわらず、グラフ・数値等の資料を捏…もとい、創作できないところが、クライトンとの最大の違いか。地図くらいは入れてくれてもよかったのにな。
基本はベルヌやウェルズをなぞったといってもいいほどの正統派SF小説に、現代風の手に汗握る大仕掛けなアクション&サスペンスを加味し、ラヴクラフトふうの薄気味悪い海洋ホラーで味付けという、サービス満点のエンタテインメント。
欧米ものらしく聖書のメタファー(相当皮肉のきいたキリスト役ですが)へと収束し、小説的な小難しさも全くありません。

登場人物が多いこと(人物一覧と首っ引き)と、あくまでもストーリーが主体で、これといった主人公はいないことくらいが要注意事項でしょうか。
主役級の人物を惜しげもなく捨てていきますので、特定のキャラクターに思い入れるとがっかりします。人間ドラマとしては淡白ですが、そこにこだわっていたら分量が倍になって、スピード感も半減してしまったでしょう。パニック度からいって、主要人物が誰も死なないというのは不自然ですし、展開上しかたありません。
誰が残るのか、誰も残らないのか、結末が全く予測できませんでした。

クジラやイルカの保護、乱開発や不法投棄が引き起こす諸問題などの話題から始まりますので、これはエコ小説かと思いきや、後半一転、正反対の方向に走り出してびっくり。
人間の描くものは人間の文化を反映するというお約束の通りに、人類をおびやかす至高の存在「イール」は、自然をよりよく支配しコントロールするという、西欧社会の伝統的な命題の反映です。
それと関係するのかどうか、この作者は、アジア人嫌いと見た。一見国際色豊かな研究チームも、よく見ると欧米以外はエスキモー・インドなど、英米に植民地化されたことのある地域の人だけなんですよね。
話がクジラがらみなので、捕鯨国日本を排除するのは仕方ないとしても、中国あたりはまぜてもよかったのでは。共産主義と帝国日本は、ドイツのトラウマなのかしら。
そのへんが、この作者の限界かも、と思いました。


映画化予定だそうですが、二時間に収めるには話が複雑すぎるので、かなり端折った内容になるでしょう。
映画の脚本が原作を超えることはないと思いますが、うまくいけば映像的には、「パーフェクト ストーム 」どころではないスペクタクルです。これは断然、劇場で見るべきでしょう。

読んだ本TB:0CM:0

金融の宿痾

2009/01/24(土) 12:20:09

昭和金融恐慌史 (講談社学術文庫)
昭和金融恐慌史(book)
posted with amazlet at 08.12.13
高橋 亀吉・森垣 淑
講談社(講談社学術文庫)

その一
現代人の品格がどうとか、拝金主義がどうとか言いますが、人間の本質ってそんなに変わるものじゃないですね。
明治生まれの人たちが起こした昭和恐慌も今の金融恐慌も、時代背景の違いこそあれ、根にあるものは同じです。どの時代にも、どの世界にも、欲につられて行動する人と、そうでない人と、二種類の人間がいるというだけ。そして、見たところ、そうでない人種のなかにも、たまたまそのような機会がなかっただけの人と、強い信念を持って、欲望に背を向けて生きる人の二種類があって、後者はほんとにほんとに、ごくわずかだと思われます。
昔々、もう見るからに学問一筋、世間のごたごたとは一線を画して生きておられるものだとばかり思っていた高名な老博士が、「相場に手を出して大やけどしたことがある」とおっしゃっているのを聞いて、私はショックでしたよ……。
だから、ウォール街の失敗について、そこらへんの人たちがこぞって批判するのって、どんなものだろうか。

その二
著者は、特定の企業の金庫番として発生した明治の銀行の前近代的な体質に、恐慌深化の原因を求め、銀行の企業への隷属体質を改めれば問題が解決するという、楽観的な見方をしていますが、それほど簡単な話なのでしょうか。
確かに、特定企業とのパイプを断ち切れば、最初の融資決定の段階では健全な取捨選択がはたらき、資金を入れるべきところに入れ、そうでないところへは貸さないという「まともな」判断もできるでしょう。
しかし、昨今の黒字倒産の事例などを見ていますと、一定の好景気の期間を経たあとで、下向きに転じたさいには、やはりどうも、健全な取捨選択は難しいのではないかという印象です。

たとえばここに、今回の恐慌以前にすでに経営が悪化していたAという会社があります。好景気に急成長した会社で、銀行はたくさん融資をしていますが、ずさんな経営のせいで事業に破綻をきたしています。このまま金を入れ続けたところで立ち直る見込みはないので、銀行も見放していて、更生法申請は目前だったのですが、そこへ恐慌が起きました。すると、この会社の業績不振も、マーケットからは他社同様に恐慌起因のものとみなされて、表面的には目立たなくなってしまいます。
一方、銀行を始めとする金融機関は、恐慌のおおもとである資金運用の失敗から大怪我をします。そうなるともう、A社は潰せません。ここでA社が潰れたら、中身は既に死に体ですから債権ごとふっとんでしまい、A社に貸し込んでいる銀行は、ただでさえ弱っているところへ更に打撃をこうむります。致命傷になるかもしれません。いきなり倒産されたくないので、ちまちまと運転資金のリファイナンスで延命させるよりほかはありません。
逆に、経営はそこそこ健全だったのに、たまたまマーケットの大暴落で苦境に陥ったB社の場合は、ほんの数億のリファイナンスを蹴られて倒産してしまいました。今はできれば貸したくない銀行側の事情と、中身のしっかりしたB社なら、潰してもそれなりに債権回収できる見通しがあったから。B社はA社よりも「ちゃんとしていたから」融資を断られた、というはなはだ理不尽な状況が発生したわけです。

結局のところ、銀行が独立した存在であれなんであれ、民間の一企業であるかぎり、彼らの融資を受ける一般企業の「適者生存」なんていうのは絵に描いた餅で、金融機関の「お家の事情」優先は避けられません。
いささか話は飛びますが、評判の悪かった護送船団方式にしろ、今は無き興長銀にしろ、バブル後の公的資金注入の過程で手放した種々の政府(or官庁)主導型の金融システムは、そもそもこういった弊害を是正するための仕組みだったのでは、と今更ながら思ったりします。


さて昭和恐慌に戻りますが、この混乱のあおりをくらって、祖母の実家は倒産しました。江戸時代から何代も続いた商家だったのですが、あらいざらい差し押さえられて、持っていかれたそうです。家だけがかろうじて残り、幸い戦災には遭いませんでしたので、戦後も長く、朽ちかけた女中部屋だの使用人の部屋だの厩だのが、往時の繁栄のおもかげをとどめていました。破産当時の一族のショックはいかばかりであっただろうかと思います。
この事件が教訓となって、終戦時に外地にいた祖母は、玉音放送を聞くやいなや、敗戦の衝撃もものかは、銀行にかけつけて預金を全額引き出してきたというひとつ話があります。
彼女は金融機関というものを信用していませんでした。金融機関の扱う有価証券も貨幣さえも信頼せず、使える間にさっさと使ってしまい、最後まで抱え込んでいたのは「モノ」で、これをさまざまなモノやサービスと交換しながら、彼女の一家はどうにか全員無事に本土に引き揚げ、戦後を生き延びてきたのです。
敗戦によって、国というものに対する信頼も地に落ちた時代を生きた人です。今も存命だったら、預金保護なんて何の保障にもならない、家族が大事ならさっさと預金を引き出しておいでと、叱りつけられたかもしれませんね。


昭和恐慌が遠因のひとつとなって、日本が無理な戦争への道を歩みだしてしまったことを思うと、経済の混乱は単に経済の世界のみにとどまらない、はかりしれない影響力を秘めているわけで、今回の世界恐慌もこのさきどのような未来へつながるのか、空恐ろしい気がします。

読んだ本TB:0CM:0

お馬さんは?お馬さんは死んでないよね?

2009/01/21(水) 18:04:09

影武者<普及版> [DVD]
影武者<普及版> (cinema)監督:黒澤 明仲代達矢、山崎 努、萩原健一、根津甚八1980年 日本
posted with amazlet at 08.12.21
BS黒澤監督特集にて。あらすじ・批評その他はよそでさんざん目にしたので、確認程度の興味しかありませんでしたが、意外に見ごたえありました。これならばカンヌでパルムドールが取れても不思議じゃないです。

黒澤映画には特に珍しいことではありませんが、なにしろ非常に丁寧に撮っていて、場面場面に絵画的なたくらみがあります。動きを主体とする現代映画一般と違い、個々の画面構成に徹底的にこだわっています。最後の合戦シーンに代表されるような、大きな動きのあるスペクタクルすら端正です。
これは昔々の、たとえばカール・ドライヤー作品のような志向性を、現代のアクション映画に求めたらどうなるかしらという実験だったような気もします。

舞台構成・演出は、劇中にも再々出てくる能にならっています。同じことを過去に「蜘蛛巣城」なんかでさんざんやっているので、まあさすがに演じさせるほうも演じるほうも上手いこと。視線の動きひとつ、咳ひとつで感情表現しなきゃならない職人芸のレベルですから、いくらプロでも俳優の側はさぞかし大変だったでしょうね。
この手の演出を真似たのをいくつか見ましたが、他ではなかなかこうはいきません。
解説によれば、キャスティングに新人抜擢が多かったそうですが、よほどやかましく言われたのでしょうか、ベテラン俳優はもちろんのこと、当時無名の新人もなかなかみごとなものです。武田家臣団のベテラン勢が出来すぎ・おさまりすぎなので、新人のすなおな演技が逆にリアリティをかもしだして、好対照でした。

展開は、起承転結ではなく、能の序破急を踏んでいます。
影武者の選定から、信玄の死を秘す三年間、そして最後にわあっと合戦の場面が拡がって、それがいきなりすとんと終わると、もう全員が退場です。
時間配分も能にそろえてみたのか、かなり冗長なところが目に付き、これが傷といえば傷になっています。能って長いんですよね……特に「急」で、鬼に変身して狂うところとか、天女の舞とか。室町時代的にはたいへんな見せ場なのでしょうが、現代人にはちょっとくどいので、もう少しスピーディに流してもよかったのでは。

ストーリーのほうもいささか凝りすぎの感がないではありません。
影武者を二人設定したがために、視点がぶれて、いずれの影武者の運命についても感動が薄れてしまったのは残念でした。
おそらくこの話は、仲代演じる影武者ではなく、初代影武者であるところの、信玄が弟・信廉の悲劇であり、またそのようにストーリーを作って、仲代影武者を徹底的に客観し、道化役として扱ったほうが、(たとえラストシーンがあの通りであったとしても)より盛り上がったと思われます。二重写しの苦悩を自覚しているのは、無学で粗野な仲代影武者ではなく、山崎努の信廉のほうだからです。

その意味では、仲代さんは目立ちすぎました。でもだからといって、これが当初の予定通りの勝新だったらなおのことダメだったろうと思うのです。どのみち勝新は降りていたんじゃないかな。
本作で大女優二人の個性を徹底的に剥奪した黒澤監督をもってしても、あの存在感を一介の庶民に堕として死なせるのは無理。サイズだけでもでかすぎます。


見た映画(DVD)TB:0CM:0

ラピュータの住人

2009/01/21(水) 13:52:30

容疑者Xの献身 (文春文庫 ひ 13-7)
容疑者Xの献身(book)
posted with amazlet at 08.09.03
東野 圭吾
文藝春秋 (文春文庫 )

まずは比較的新しいところから。といっても、これは何年も前のハードカバーを昨年文庫化しただけだから、実は新しくもなんともないのですが。

えー、たいへんよく売れております。探偵ガリレオシリーズの短編がTVドラマ化され、まだどうにか二枚目役が張れるフクヤマ君が主演したのが大きかったです。フクヤマ君はドラマに出始めた頃から注目しておりまして(もうかれこれ20年前か…)、まあファンといえるかもしれません。
初めて見た「KYなエリート若手社員」役(超生意気)があまりにもはまっていたため、私の中では「変な人」の印象で固まってしまっております。及川光博さんに近いイメージです。ミュージシャン志望で上京したのに、音楽ではうまくいかなくて、仕方なく出ていたドラマで人気者になったら、CDも売れちゃったんでした。よかったね。歌は少々アレですが、それもそのはず、本来はギタリストなので、ギターはなかなか上手なんですよ。大昔(10年以上前)、NHK-BSのマニア向け洋楽番組で弾いてるのを初めて見たときはびっくりしました。当時は話もオタクそのものでした。やっぱり変な人です。

というわけで、理論物理学?のガリレオ湯川先生役は、ぴったりのキャスティングだと思いました。柴崎コウちゃん演じるお相手役は、原作では北村一輝さんの役と合わせて一人の若手刑事で、ガリレオ先生とは大学同期のサークル友達という設定です。ということは、あの刑事さんはキャリア組なんだねえ。
ドラマ的には花も必要ですから、コウちゃんはあれでいいとして、残念なのは北村一輝さんがフツーの人役をやってること。フツーじゃないでしょ、あの人。黙って出したら、これが犯人かと思うじゃないですか! 彼を使うなら、もっととんでもない設定にしてもらいたかったです。今年のNHK大河ドラマのキャスティングも、ほんとにどうかと思うよ! ああ、「時宗」のときの頼綱はよかったなあ。
まあ、あんまり強烈な役を当てて、主役を食っちゃっても困るか。

さて、ドラマと同じ配役で昨秋映画化された「容疑者X」(映画は未見)です。
このシリーズはどれも「ネタのためなら何でもやります!」的な、超人的にマメな犯人が出てくるミステリで、推理には整合性があってもストーリーには無理があります。シリーズ初の長編である本作もご多分に洩れません。
不遇の「天才数学者」という設定の中年男が、隣の年増美人に惚れるのですが、その惚れ方たるや、純情を通り越して何か病的なものを感じさせます。理系男子の大半がアニオタであるというのは現代の常識ですが、この中年男の場合も、対象が三次元という違いはあるものの、根は同じと思われます。
一般にこの手の人は、頭は良くても日常生活では「使えない」ものなのに、この先生は驚くほど有能で、経験もないのに何でも手際よくできちゃうのが非常に嘘くさい。頭で考えることと、現実に手を動かすことって、本質的に違うでしょ。「以上はすべて、隣の痴話喧嘩を盗み聞いた彼の妄想でした」ってオチなら、ベタだけどとっても納得だったのにな~。

さんざん理詰めで進んできて、ま、これはお話よりも理屈を楽しむ今様「ホンカク」だからね、と思っていたら、ラストがアレですよ。泣けますか? 私は違う意味で泣きたくなりました。


ところで、「犯人がいっしょけんめい頑張って隠蔽し、探偵がそれを崩す」という通常のミステリのパターンを、完全にひっくりかえして、無茶苦茶おかしかったのが、昨秋のドラマ「33分探偵(DVD)」です。
探偵が時間いっぱい使って、苦心惨憺、真犯人がやりそうなトリックや隠蔽工作を案出しますが、助手からも証人からも、そして犯人からさえ「無理。」と否定されてしまうのです。
古典ミステリのネタが次々と槍玉にあがります。そーだよなー、無理だよなー。

読んだ本TB:0CM:0

再開

2009/01/21(水) 13:23:40

長らく放置してしまいました。
この間、いろんなサイト(たなぞうとか)に浮気していたのですが、本だけだったり、字数制限があったり、いろんなお約束事がめんどうで、どうもうまくありません。書く側よりも、見る(読む)側に焦点を合わせたところが多いように思います。データベースとして利用しやすいように、ということなのでしょうが、カタにはめられるのは窮屈で。これなら、amazonに書き込むのと気分的にはそれほど変わらない気がする。

はてなダイアリーは、ようやく下書き保存機能がついたようですね。今頃遅いよ。あれにもいいところはあるんですが、はてな記法がめんどくさい。やっぱりHTMLでいじりたい、というか、HTMLだってスタイルシートだって、たいしていじるわけじゃないんだけど、たぶん、「それはできませんよ」「これでやれ」と言われるのが嫌なんですね。相変わらずBlogWriteに対応してくれないのも、大きな理由です。この先もないだろうなあ。

サイトではありませんが、firefox上で動かすブログエディタのfirescribe、あれも使いこなせませんでした。これはBlogWriteで分かっていたことですが、WISIWYGは、言われた通りにおとなしく使っている間は本当に便利。でも、もうちょっとこうしたいというときに俄然困ります。まあそれならHTMLでも使えるし、タグの挿入支援機能もあって、BlogWriteよりも親切。しかし問題はオフラインだとやりにくいこと。ローカルの別の場所にストックしておけない、というのも私にとっては厄介です。

ジャストシステムのxfy Blog Editor(無料版)、二度ほどインストールしてみましたが、これはまあ重いこと重いこと。尋常な重さではないので、ソフト自体がどうとかより、こちらのシステム内の何かが邪魔しているんじゃないかと思います。がしかし、原因を突き止めて解決する気力がない。たくさんの親切機能付きで、非常に後ろ髪を引かれるものの、クリックごとに待たされるのがどうにも辛抱できず、BlogWriteに戻ってきてしまいました。

結局、BlogWriteを使って書いたものを、ローカルの適当な場所にストックしつつ、好き勝手にだらしなくやれるfc2にアップするのが、いちばん気楽ということになりました。あちこちに散らばってるものは、ぼちぼちここに集めてこようと思います。読んだ順ではなくなっちゃうけど、まあ仕方がないや。

なみま雑記TB:0CM:0

キャスティング・ボード

2007/09/20(木) 00:06:00

ニューオーリンズ・トライアル/陪審評決 プレミアム・エディション
ニューオーリンズ・トライアル/陪審評決(cinema)
監督 ゲイリー・フレダージョン・キューザック、
ジーン・ハックマン、ダスティン・ホフマン、
レイチェル・ワイズ
2003年 アメリカ
posted with amazlet on 07.07.17

無差別銃撃事件で夫を亡くした若い女性が、銃の製造会社を相手取って訴訟を起こした。弁護に立つのは、銃規制問題のベテラン、ローアー弁護士。これに対抗して、被告の製造会社側は、負け知らずの敏腕弁護士フィッチのチームに依頼した。
フィッチは、豊富な資金をバックに、ためらうことなく陪審員の買収にとりかかる。実は、彼の事務所は、ソフトな買収から、盗聴・盗撮なんでもアリの汚い脅迫まで、ありとあらゆる手段を駆使して陪審員を抱き込むことで、確実な勝訴をものにしてきたのだ。ところが、今回に限って、想定外の人物が陪審員長に指名されたり、得票源と目する陪審員が突然退廷させられたり、票が思うようにまとまらない。もしや誰かが妨害しているのか? 
苛立つ彼のもとに、マーリーと名乗る謎の女から「金を払えば、陪審員票をまとめてやる」との電話が。どうやらフィッチのライバルは、陪審員の中にまぎれこんで、彼の工作を撹乱しているらしいのだ。フィッチはプロ?としての面目を賭けて、小癪な妨害者の正体を突き止め、相手をギュウという目にあわせてやろうと決意するのだったが。


白黒はっきりした勧善懲悪系の法廷物かと思いきや、裁判そっちのけで展開する買収騒動のお話なのでした。
銃所持禁止の日本に住む私たちにとっては、これだけ銃を用いた犯罪や事件が多発しているにもかかわらず、何故アメリカでは規制ができないのか、理解に苦しむところなので、こういう話を見ると、ああ、そういう裏事情があるのかもなあと思ってしまいますね。

ジーン・ハックマンの悪役が名演。ひさびさにこの人のいい芝居を見ました。役柄のインパクトのせいでもあるのですが、ダスティン・ホフマンをしのぐ迫力です。「正義なんか知らねえよ」と言い切っちゃうところ、少し薄っぺらいけど、いっそすがすがしい。弁護士の仕事に善も悪もない、というのは、確かに一面真実でもあるわけですから。
主演のジョン・キューザックもクサい役者。いいやつなんだか悪い奴なんだか。平凡で人の良さそうな見かけの下で、本音は何を考えているのやら…という、フィッチとは対照的に表裏のある難しいニック役を、器用に演じています。雰囲気も演技力も、ケビン・スペイシーの後継という感じです。
レイチェル・ワイズのマーリーも、ただの生意気な可愛い子ちゃんではありません。好きなタイプの女優ではないけど、さばさばしたシャープな演技が小気味良かった。

単なる金目当てではなさそうな、しかし、なかなか見えないニック&マーリーの真の動機。また、恋人同士にしてはあっさりしすぎ、でもただの友人・知人とも思えない二人の関係。裁判の進行と平行して、彼らの内部にある謎がふくらみ、やがて、ゲームの行方に大きくかかわってゆきます。

脇を固める判事や陪審員の面々も、とても丁寧な演技。それぞれのドラマが意外に効いています。キャスティングと役者の力量で見せる、手堅い作品でした。

ところで、しかしというか、やはりというか、ただのお話とはいえ、陪審員制って、いろんなことがありそうな気がします。判事に任せておけば、不正が起こらないというものでもないのでしょうが、う~ん…。ほんとうに大丈夫なのかなあ。

見た映画(DVD)TB:1CM:0

魂の放浪

2007/06/14(木) 23:01:17

耳に残るは君の歌声
耳に残るは君の歌声(cinema)
監督 サリー・ポッター
クリスティーナ・リッチ、ジョニー・デップ、
ケイト・ブランシェット、ジョン・タトゥーロ
2000年 イギリス/フランス
posted with amazlet on 07.06.13

ナチスのポーランド侵攻前夜、東欧のユダヤ人集落に生まれ、迫害の中で父親と生き別れた少女フィゲレが、イギリスからフランスへと、西欧文化の中を流れ歩きながら、失われた父と心の故郷を捜し求める物語。

歌の上手な父親と、その血を引いた美声の娘。彼女の運命の転機には、必ず歌がからみ、音楽映画のような味わいです。
とりわけ印象的なのは、彼女が、イタリア人歌手の歌う「真珠取り」で一気に過去へ引き戻される場面。スージーと改名し、イギリス家庭で育ち、イギリス女性としてパリに渡り、西欧文化にどっぷりつかって、ユダヤ人だった昔がすっかり遠いものになっていたそのとき、父そっくりの美しいテノールを耳にして、思わず身を乗り出します。
そこへ偶然居合わせたロマの青年が、彼女のただならぬ様子に関心を寄せ…というところから、この二人の「血が血を呼ぶ」ような恋物語が、後半の中心となってゆきます。

居留地を渡り歩くロマの人々のように、フィゲレ=スージーも、村からイギリスへ、イギリスからフランスへ、フランスからさらに大陸へと生活の場を移していきます。
彼女を動かすのは、彼女の意思と同時に、父の祈りであり、祖母の思いであり、彼女を救った教師やオペラの座長、そしてもちろん、恋人の願い。彼らが彼女の求める「故郷」の象徴となる一方で、彼女自身が彼らにとっての、かけがえのない「無垢な希望」でもある。
一見、「母を尋ねて三千里」の同工異曲のようなこの作品は、彼らの側から見れば、故郷喪失者たちの受難と、「希望」を自由の天地に解き放つことによる救済を描いたものともいえるでしょう。


テーマソングの「暗い日曜日」は時代背景、「真珠取り」は、ストーリーの共通性(自らを犠牲にして好きな女を逃がす話)から選ばれたのだと思います。どちらも非常にポピュラーな名曲で、悪くはないのですが、「日曜日」は大戦中の話に使われすぎって気もするし、「真珠取り」はあまりにもメロドラマチック。まあ、どっちみちメロドラマだからいいのか…。
せっかく音楽好きのロマの人たちの話なのだから、もうちょっとそれらしい歌があればなあ。


ロシアからの亡命者で、堅実なスージーとは対照的に、享楽的で生に貪欲な友人を演じるケイト・ブランシェットが、別人かと思うほどのお色気と華やかさで、とても上手。彼女がいちばん現実的で痛々しい役どころです。
彼女の相手役となるイタリア人歌手も、時代の芸術家の典型。観客にはこの先が見えているだけに、単なる悪役とは思えない。
ジャン・レノから脂を抜いたような感じのお父さん、いいな~と思って見てたら、この俳優(オレグ・ヤンコフスキー)は、タルコフスキーの「ノスタルジア」の人でしたか。見違えました。

そして、ジョニー・デップは今更言うまでもありませんが…そもそもこの映画、シネフィルのジョニー・デップ特集でやってたのを見たのでした。その前にくっついてたインタビュー番組も面白かったです。
むこうの俳優の話を聞いてて凄いなと思うのは、みんな大学だとか映画スクールだとかで、演劇理論を一通り勉強しているんですよね。それに比べると、日本は個人の才能任せか、監督-俳優の徒弟制度みたいな勉強がほとんど。
ぽっと出のアイドル俳優で固めてる時点で、作品の厚み自体が違うのも無理ないかと思っちゃったのが、次に見た「デス・ノート」でありました。

見た映画(DVD)TB:0CM:0

入隊一ヶ月

2007/06/13(水) 22:51:23



おお、奇跡的にひと月続いております。
残念なことに、成果は微妙なんですが…。
体重はマイナス1kg、そのほかの数字は小刻みに上がったり下がったりで、結局あんまり減ってないかんじ。
調べてみると、もともとピッタリ標準体重(理想体重?)、体脂肪も内臓脂肪も正常値、ということで、大して減る余地がないのかもしれません。
若い頃に比べると、衝撃的な体重増&サイズ増だったわけですが、当時が異常、今はむしろ健康体なんでしょうね。でもやっぱりもう少し痩せたい…。昔から今の体重なら何とも思わないけど、いちいち「太ったでしょ」と言われるのは嫌!

「まあ、しないよりは、したほうがマシなんじゃないですか?(薄笑い)」という3号の台詞をバネに、もう少し頑張ってみましょう。
体型とか体重はほとんど変わりませんが、体調はいいし、姿勢が良くなってるような気がします。

逃避していた3のAB(腹筋)プログラムですが、先週から、週一はがんばってみることにしました。特に寝てやる運動は、ほとんどついていけてないけど、「自分のペースで」「できる範囲で」というビリーの言葉を励みに、「keep moving」だけをこころがけて、できないところは無理せず、えっちらおっちら、普通の腹筋運動でごまかしています。

1→2→1→3→1→2、のように、軽めの1を合間合間にはさんでやっています。1はけっこう余裕、そろそろリズミーファイターからバンドへレベルアップを検討しています。2はあいかわらずつらいですが、大体はついていけるようになりました。ウン、確実に技術は向上してると思います!

なみま雑記TB:0CM:0

異国にて

2007/06/12(火) 19:28:34

カフカの友と20の物語
アイザック・B. シンガー 村川 武彦 訳
彩流社 (2006/06)

ユダヤの民族文学作家による短編集。
シンガーは1978年度ノーベル文学賞受賞、日本では児童文学の分野で知られる作家で、何冊か翻訳も出ています。
なんと、80年代の映画「愛のイエントル」(バーブラ・ストライザンド主演)の原作者でもあるのですね。旧弊なしきたりに逆らい、男装してまで学問を志す、勇ましい女性の自立を描いた作品で、けっこうヒットしていたのを思い出しました。

戦前から戦後にかけて、移りゆく世界にあるいは逆らい、あるいは流されるユダヤ社会を舞台に、市井の人々の日常の哀歓をつづった作品群ですが、宗教で結びついている彼らの精神世界を反映してか、神話のような、おとぎ話のような、素朴な幻想の香りが漂います。
味わいは異なりますが、ルーマニアの作家エリアーデなどにも、近い雰囲気が感じられ、東欧の精神風土に思いをはせたことでした。

非常に残念なのは、かなりの部分、文章が日本語になっていないこと。
英訳本(原文はイディッシュ語)からの二重翻訳であるためなのかもしれませんが、それにしてもテニヲハの間違いまで散見するのは、素人目にもちょっとひどい。
せっかく良い作品集なのに、もったいないです。どうせなら違う訳で読みたかった。


カフカの友: カフカの親友だったと称する落魄した男の、現実とも妄想ともつかないとりとめのない話。閉塞状況と奇妙な楽観がないまぜになった不可思議な感覚です。

ある冬の夜の客: つましい家庭に突然のりこんできて、居座ってしまった家なしの伯母さん。招かれざる客の、社会慣習とも道徳とも離れて、自由に与え与えられる屈託の無い生き方に、宗教的な理想世界が浮かび上がります。

: 社会に背を向け、自分ひとりの世界に閉じこもるかたくなな老女の絶望。前作の伯母さんとは対極の生きかたを描きます。世の中は、自分自身の心の反映であるということでしょうか。

ベーベル博士: 生まれながらのボヘミアン、伊達男の独身者ベーベル博士に突然訪れた「幸福な人生」のてんまつを描く笑話。幸せも所により人によるというお話。

ストーブを囲んで聞いた話: ユダヤ社会の伝統を垣間見る、民俗色豊かな作。ユダヤ教の学び舎に集う人々が、冬の夜長、こもごもに語る奇談。シンガーという作家のルーツを物語るような作品です。

カフェテリア: ブロードウェイの片隅にある、同胞たちが集うカフェテリアを舞台に、作者の分身とおぼしき成功したユダヤ人作家と、薄幸の女性との、途切れ途切れの淡い交情。中編映画になりそうな、美しく哀切な一篇ですが、残念ながら日本語が崩壊しています。

教師: アメリカで成功した「わたし」は、建国間もないイスラエルを訪れた折に、故郷で教え子だった女性と再会する。彼女の破綻した結婚生活を通して、現代のユダヤ人社会がはらむ矛盾を描いたもの。

: ドバトがほんとうに大人しくて無害かどうかはさておき、ユダヤ人迫害の暗雲が垂れ込めるポーランドで、鳩たちと静かに暮らすやもめの教授を襲う災難。ホロコースト前夜の不吉な物語。

煙突掃除夫: 働き者の煙突掃除人ヤシュが、ある日突然千里眼になっちゃった! 実直な庶民社会のヒーローをめぐる愉快な寓話。

: 宗教上の規律にのみ生きがいを求める男の運命。ユダヤ教の正統派のあまりにも煩雑な慣習を皮肉っています。

アルテレ: 祖母に育てられ、古い風習に従って生きる女性アルテレがたどる奇妙な人生。ジプシーと呼ばれる人々のバックグラウンドを見るようです。

冗談: ニューヨークに住む雑誌発行人が、ふとしたことから、ベルリン在住の真面目なヘブライ語学者にいたずらを仕掛ける話。お堅い学者のロマンチストぶりを笑うという趣向が、意外な方向に進んで…。

めかし屋: 常軌を逸した見栄っ張りで人生を棒に振る女の話。しかし、ここまでやれば立派という気もする、というオチです。

シュロイメレ: 渡米したものの、未だ売れない作家の「私」に「イエントル」舞台化の話を持ちかけてきた演出家のシュロイメレ。暗い世相を背景に、成功を夢見る二人の同病相哀れむ友情を描く脱力小説。

植民地: アルゼンチンのユダヤ人入植地(なんてあるんだ!)を訪れた「わたし」。古い家業も習慣も捨て、現地に同化して、現代社会のどこにでもある悩みをかかえる若い層と、どこへ行ってもユダヤ人でありつづける古い人々との対比を描きます。

涜神者: 信心深いユダヤ人庶民家庭に生まれた現代的な知性の悲劇。筋金入りの反抗期。

賭け: くだらない賭けで人生を狂わせた男。これも放浪者の物語です。

息子: 別れた妻が連れて行った息子との、二十年ぶりの再会に緊張する「わたし」。長い年月ののち、再び生きてめぐりあう運命の不思議と、ことばやかたちにならない父子の絆。

宿命: これはどこかで読んだことがあるような気がするのですが。情の濃い女性の報われない愛の悲劇、と見せて、実は普遍的にありそうな怖い話です。

神秘的な力: 神秘的な感応力を授かったために、過去にまつわりつかれる男の無間地獄。

そこに何かがいる: 神なき時代にラビとして生きねばならない男の、魂の彷徨。彼が最期に見たものは。宗教が成立しにくい現代における、受難と救済を考えます。

読んだ本TB:1CM:0

孤独な幽霊

2007/06/09(土) 19:21:02

悪魔のひじの家(book)
ジョン・ディクスン カー 白須 清美 訳
新樹社 1998年


淋しい海辺に建つふるい邸宅、緑樹館を舞台とした殺人ミステリ。

初版は1964年。カー晩年の作品です。なつかしのフェル博士とその相棒が登場、というところが主な目玉です。
変わり者の主人、娘ほども年の離れた美人妻、アメリカ育ちの甥、性格悪い小姑、わけありの秘書、有能な弁護士、だらしない医者、といった面々に、遺産相続ネタをからめ、カー好みのオカルト味をまぶした、とってもスタンダードな密室もの。
まあ、カーの水準作といっていいのではないでしょうか。

からくりは当たったけど、犯人を読み違えた! 
う~ん、現代小説なら、こうじゃないと思うなあ…。絶対ちがうでしょ…。

訳者は若い人でしょうか。ところどころ表現が気になります。
特に、エステル叔母さんの言葉遣い。いくら性格がくそばばあでも、一応旧家のお嬢様育ちなのだから、もう少し気取ってるほうがそれらしかったのでは。これじゃ下町のおばちゃんだわ。

読んだ本TB:0CM:0

カルト集会に参加する

2007/06/09(土) 18:44:28

ひょんなことから、カルトの集会に参加しました。
ふるい友人と久しぶりに会う約束をしたら、当日になって急に「他の友達も来てるんだけど、一緒でもいいかしら」と言われ、なにか妙だなと思いつつも、何の気なしに承諾したら、実はそういうことだったわけです。

そこで即座に「こんな話なら、私は嫌だ」と宣言して帰ってもよかったんだけど、場の空気を乱すようだし、友人に悪いし、それに、どんなもんかしらと好奇心も手伝って、つい調子を合わせてしまいました。
まさに相手の思うツボ。2号にはさんざん気をつけろと言ってるくせに、だめじゃん。

それにしても、こういう人たちってやり方がほんとに上手です。
もちろん、「カルト」なんて、おくびにも出しません。「宗教」とも言いたがらない。まあ、「宗教法人」と冠がついてるのに、繰り返し「違います」と言うのが既に怪しさ100%ですが、ともあれ、あくまでも「学習会」「お勉強」と称します。
メンツは、友人も含めて、裕福そうで、きれいでお洒落で華やかな奥様ばかり。どういうものか、やたらビーズアクセサリを付けてる人が多かった。様子から見て、当然本物のジュエリーや高級ブランド品を持っているであろう層の人たちが、そろいもそろって、ビーズ&ノーブランドなところに、なにやら意図が感じられます。

皆が円座になって、社交クラブみたいな当たり障りの無い自己紹介が終わると、あらかじめ決めてあるらしい「本日のお当番さん」が、「お話」を始めます。中身は、この会でお勉強したおかげで、こんなに幸せになりましたという「体験談」。
というと、いかにもうさんくさいけれど、その話し方がまた、誠実そうで、感じよくて、嘘くさくない。ほんとうに巧み…というか、ご本人は、夫の出世や、子育ての成功や、思わぬ収入増などの「幸運」が、すべて会のおかげだと、心から信じているのでしょう。
他の美しき会員の皆様は、ポイントごとに、タイミングよくにこやかに頷き、笑い、感動し、拍手などして、なごやかに盛り上げます。

さて、このグループの中に、私ともう一人、彼女たちとは明らかに雰囲気の異なる、地味な感じの主婦が参加していて、やがてわかったのですが、本日のメインエベントは、この方の勧誘なのでした。お当番さんのお話のあとは、数名ずつのグループにばらけ、グループリーダーとおぼしき女性が、入会希望者に張り付いて、一本釣りにかかります。
現状に不満のある人が、「勝ち組」のオーラむんむんの彼女たちに囲まれ、夢のような成功談を聞かされ、「さあ、あなたも仲間に入って幸せになりましょう!」と言われたら、ついその気になるのも無理はありません。私も勧誘されちゃうのかな?と、怖いもの見たさでドキドキしてたら、あらら?私はスルーですか。
どうも、一目で「アレはダメね」と選別されてしまったようです。あれ、私、がっかりしてる。なんだか、「幸運の扉」から締め出されたような気分です。

これだ。
「入って~入って~」などと、大学の体育サークルみたいなベタな勧誘などしないのです。そんなことしたら、せっかく寄ってきたものも、怯えて逃げ出すに決まっていますから。強制はしません。あくまでも自由意志による入会(入信)が建前です。
撒き餌をし、他の魚が先に行くところを見せ、あわてて向こうから食いつくのを待つ。鮎釣りとはちょっと違うけど、こういうのも一種の友釣りだな。
オウムも、この手を使ったのでした。宗教などとは関係なさそうな、健康ヨガ教室に生徒を集め、それとなく教義を吹き込み、目ぼしい生徒に「位」を与えて優遇し、それを餌に残りを釣り上げる。人の心理を利用したうまいやり方です。

う、ちょっと危なかった。


帰宅後、どっぷり浸かってるふうの友人が気になり、「大先生」のお名前を手がかりにネットでぐぐってみました。
たぶんコレ、という団体がひとつヒットしました。幸い、ネット情報で見るかぎりでは、変なオカルト思想だとか、高額インチキグッズ販売などの極端なぼったくりはやっておらず、今のところ、家族が困っているとか騙されたとかいう話も無い。この手のものの中では、比較的たちのよさそうな団体でした。ネットだけでは何とも言えませんが、まあ、少し安心しました。
カルトが、すべて有害と決まっているわけではありません。
友人は、若い頃から何かと悩みの多い人生を送っています。少々胡散臭くとも、彼女にとって、そこが心の休まる場所なら、お布施に見合うだけの価値はあるのでしょう。

なみま雑記TB:0CM:0

近世の医療

2007/06/05(火) 16:01:09

疫病(ハヤリヤマイ)と狐憑き
   ―近世庶民の医療事情

昼田源四郎 みすず書房 1985年

はしかの流行が騒がれている今日このごろ。私が子供の頃は、小学校・幼稚園でのはしか騒ぎは日常茶飯事でしたので、大した病気とも思っていませんでしたが、この本で「疱瘡は器量さだめ、麻疹は命さだめ」という近世のことわざを、久々に思い出しました。昔は大人でも死んじゃう病気だったんですね。
今、はしかで怖いのは、予防接種前の乳幼児、それから稀に大人もかかる脳炎といったところ。深刻な難病です。死に直結することが少なくなったとはいえ、やはりなめてはいけないようです。


奥州守山領(現福島県郡山市)の、江戸中~末期の公務記録「御用留帳」中、医療に関する記載を拾い出して丹念に分析した著作。
精神科の医師でもある著者によって、専門的な解説も加えながら、明治以前の地方社会における医療事情が活写されます。

東北の寒村のこととて、飢饉・流行病、また貧困に伴う間引きの悲惨や、おまじない程度の貧しい医療技術などは、おおかた予想通りですが、その一方で、医療従事者の数が、今日の基準に照らしても十二分であることや、精神病者への人道的な配慮など、「実はそうだったのか!」と驚くような意外な事実の数々。何事も思い込みはいけません。

殊に詳しいのは、著者の専門である精神医療の分野ですが、その中でも、心神喪失状態での犯行については、殺人を含め、本人の責任を問わなかったことなど、西欧医学の普及以前に、早くも近代的な精神病観が発生していたことは、特筆に値するかと思います。
被害者への同情のあまり、感情的に結果責任を問い、報復刑の発想へ傾きがちな現在、あらためて見直すべき歴史的経緯ではないでしょうか。

衛生指導や、他出中の病人の取り扱い、牢内の医療、少子化ならぬ間引き対策等、封建制のもと、「生産力維持のために農業従事者数を確保する」という、為政者のご都合主義的な側面があるとはいえ、領民保護の立場から、少なくとも形の上では、近代的な人権擁護に近い施策が行なわれつつあったことがわかります。
明治期における爆発的な西欧思想の普及は、維新以前の基盤あってのものだったのですね。

読んだ本TB:0CM:0
ホーム全記事一覧次のページ >>
Copyright(C) 2006 常世国往還記 All Rights Reserved.
template designed by 遥かなるわらしべ長者への挑戦.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。